<国公労調査時報・第411号97年3月号より>

行財政改革と規制緩和


国公労連書記次長 小田川 義和

はじめに

96年11月19日、政府は、総理府の審議会として行政改革会議を設置した。この行政改革会議は、国家行政組織法第8条による審議会であり、総理府の所掌事務の範囲内で、法律または政令の定める重要事項の審議をおこなうことが目的となるはずである。しかし、「橋本行革は『集権』体制、臨調方式はとらず直接指揮」(11月21日付・朝日新聞朝刊)とするマスコミ報道にもみられるように、行政改革「実施」の機関とうけとめた報道がおこなわれている。1審議会に過ぎなかった第二臨調が、国会をこえる「超法規的な機関」として機能し、国民生活に多大な犠牲を強いる行政改革の旗振りをおこなった15年前の状況を彷彿させる状況である。
今日の情勢は、先の総選挙や10月31日の自民・社民・さきがけ3党の「政権合意」文書(*1)などにも明らかなように、日本共産党を除くすべての政党が「小さな政府」をめざした行財政改革断行の方向で一致しているという政治状況にあること、バブル経済崩壊後の景気伸び悩みのもとで96年度末で国債発行残高が240兆円を超えることが確実な深刻な財政状況にあること、「大競争時代」といわれる国際経済状況の変化に対応するとして日本企業の多国籍企業化が急がれているなど、第二臨調発足時以上に行財政改革の「圧力」があることを考えれば、行政改革会議がどのような性格と位置づけで設置されたのかをみておくことが重要なのではないかと考える。そのことからまず行政改革会議の構成等についてみておきたい。

「第3次臨調」といえる
行政改革会議

行政改革会議は、自民党が先の総選挙で掲げた「中央省庁を4分野・11省庁に再編」することなどから、いわゆる「霞ヶ関改革」を目的に設置されたものと一般的にはうけとめられている。政令に規定される同会議の設置目的は、「複雑多岐にわたる行政の課題」に柔軟かつ的確に対応するため必要な国の行政機関の再編及び統合の推進に関する基本的かつ総合的な事項を調査審議すること」となっている。注意をひくのは「行政機関の再編及び統合の推進に関する事項を調査審議する」としているのではなく、「行政機関の再編成及び統合の推進に関する基本的かつ総合的な事項を調査審議する」としていることである。
行政改革会議の構成は、先の3党合意もふまえて、首相の「強力なリーダーシップ」が発揮できる「民間人中心」の機関として設置されている。そのことから、会長には「内閣総理大臣をもってあてる」ことが明記され、会長代理には国務大臣(総務庁長官)をあてることとされている。また、「13人以内」とされる委員には豊田経団連会長、芦田連合会長、渡辺読売新聞社社長、川口NHK会長などに加え、行政改革委員会の会長でもある飯田三菱重工相談役と地方分権推進委員会の会長である諸井秩父小野田相談役も含まれている。また、同会議の事務局は、各省庁から出向(*2)する「臨調方式」がとられ、事務局長には委員でもある水野清・元総務庁長官(前自民党行政改革推進本部の責任者)が就任している。このような委員構成をふまえて、先の朝日新聞でも行政改革委員会や地方分権推進委員会を行革会議の「下部機関」と位置づけた報道をおこなっている。
いずれも首相直属の審議会ではあるが、国会の審議をへて法律に基づいて設置されている行政改革委員会や地方分権推進委員会の「上部機関」が、1行政機関の政令で設置された審議会になるという逆順の関係になっている。このことに関して、マスコミ報道では、法律に基づく臨調方式では「提言までに時間がかかり、首相の意欲も伝わりにくい」との判断が「首相周辺」にあったことを報じている。行政改革委員会や地方分権推進委員会の報告・勧告をうけて、行政改革会議で具体化を進める機構づくりを橋本首相がめざしたことは明らかである。
また、行政改革会議では、経済関係の審議会(*3)を統合して一括審議することが検討の俎上にのぼり、さらに審議のペースを早めて、一定の時期に中間的な報告を取りまとめることも検討されていることも報道されている。単に中央省庁の再編・統合の検討にはとどまらず、「中央省庁再編を進めるためには規制緩和、地方分権が必要」「省庁再編のためには経済構造の見直しが必要」「財政面から見た省庁組織や行政内容のあり方」等々、中央省庁再編・統合の「前提」として、広範な行財政改革の課題の「具体化」が論議されることは確実な状況である。
この行革会議の設置期間は、1998年6月30日までとされており、首相の「強いリーダーシップ」のもとに、次の参議院選挙を念頭においた政治的な意図を強く持った運営がなされることが必至なものとなっている点も大きな特徴であると考える。伝えられる日程では、97年の10月ごろには、中央省庁再編の「成案」を取りまとめ、98年の通常国会に提出するスケジュールといわれている。それまでには、規制緩和計画が97年3月に策定され、6月には地方分権推進委員会の最終報告が予定されている。また、「財政再建法」の検討もいわれている。社会保障にかかわっては、昨年7月に、これまでの社会保障の理念を一変する社会保障制度審議会の勧告(95年勧告・「社会保障体制の再構築」)が出されており、税制度についても消費税を基盤とする「抜本的」な制度見直しが98年度にむけて進められている。他にも、橋本首相が直接指示したと伝えられる「経済構造改革プログラム」(96年12月閣議決定)が「2000年及び2010年の産業構造を念頭」に策定されている。
これら様々な「見直し」・「改革」は、いずれも21世紀初頭を念頭をおいている点で共通しており、それらの「計画」を取りまとめる位置に行政改革会議があり、1年程度の短期間に橋本首相が掲げる「六つの改革」(*4)の具体案の取りまとめをおこない、自民党政権の「21世紀戦略」の青写真を書きあげようとしているとうけとめられなくもない。
このように見てくると、行政改革会議は他の様々な審議会とは異なり、「第3次臨調」の性格を持ったものと考えざるをえない。同時に、第2臨調とは異なる、新たな危険性も持っている。
1993年10月27日に、第3次行革審(臨時行政改革推進委員会)が最終答申をおこない、行政改革の推進は「道半ば」として「既往の答申に基づく行革措置の着実な推進」を求め、これを受けた細川内閣(当時)は、首相を本部長に各閣僚をメンバーとする「行政改革推進本部」を設置した。しかし、その後は「政界再編」のもとで、政権自体が不安定さをまし、各閣僚も各省利益の代弁者の側面を打破しえなかったことなどから、この「本部」が思うように機能しなかったとの考えが、橋本首相の周辺にはあるのではないかと考えられる。議院内閣制のもとでは当然ともいえるこのような状況に、橋本首相が業を煮やして、「強力なリーダーシップ」の発揮できる体制として行政改革会議を選択したとすれば、極めて重大な問題点を含んでいる。
首相の権限については、従来から様々な議論があり、その強化をめざした主張も繰り返し行われている(*5)。しかし、現行の憲法では、内閣は連帯して国会に対する責任を負う(*6)こととされており、内閣法でも各行政機関にかかわる主任の大臣を定め(*7)、首相は閣議決定に基づく行政各部の指揮命令を認めているに過ぎない(*8)。大統領型の大きな権限を認めているわけではなく、国会の多数派が内閣を組閣する議院内閣制のもとでは、各行政機関の独立性の高さは、一つの価値観による行政の暴走を抑制する「チェック機能」と考えられるところである。行政改革会議の審議を経ることなく設置し、橋本首相自らがその会長につくことで、このような憲法等のしがらみ等から逃れようとしたものとも考えられ、それだけに同会議での検討の方向が反動的なものになる危険性は少なくないものと考えられる。

行政改革と規制緩和の関係
をめぐる若干の経過

規制緩和の課題が行政改革の一環として第2臨調当時で本格的に取り上げられたのは、1982年2月の第2次答申であり、「許認可等の整理合理化」として車検、自動車免許、旅券の有効期間延長、輸入検査における基準の国際化、バス停にかかわる制限の緩和などがあった。83年3月の第5次答申(最終答申)では、電話交換取扱資格の緩和や調理師等の資格認定試験事務の民間委譲、金利規制の緩和等が取り上げられた。これらは、「行政事務の簡素合理化及び整理に関する法律」(1983年法律83号)などで順次措置されている。この時期の規制緩和は、社会・経済情勢の変化への対応、行政手続きの簡素化・効率化の観点から取り上げられていたものが多い。
ところが、1985年7月の第1次行革審答申では、「規制緩和による民間活力の発揮・推進」が「今後の行政運営の基本方向」と位置づけ、民主導、競争原理の導入によって経済の活性化をめざす考え方を示した。この答申で取り上げられた分野は、金融・証券・保険、運輸、石油等エネルギー、都市整備、輸入(流通)、医薬品などであった。そして、90年4月の第2次行革審・最終答申では、その考え方をさらに進め、「規制緩和を行政改革の際の重要課題の一つ」として「公的規制の実質半減」をめざすことが掲げられた。そして、経済的規制については「原則自由の方針に基づき、規制の廃止緩和」をおこなうこと、社会的規制についても「社会経済情勢の変化、技術革新等に対応し合理化を進める」ことが打ち出されている。さらに、これらの考え方にそって、公的規制の定期的な見直しが進められることになった。この時期、規制緩和に対する一つの「理念」が確認されたが、具体化にまではいかなかった。
状況を一変させたのは、1993年4月の「総合経済対策」(宮沢内閣当時)に続く、同年11月の「平岩研究会報告」(細川内閣当時・「規制緩和について・中間報告」)であり、これと第3次行革審・最終答申をうけた94年2月の「今後における行政改革の推進方策について」(細川内閣・閣議決定)であった。この、閣議決定では、経済対策の側面から、買電のメニュー整備、トラック事業の運賃届け出規制の緩和、流動性預金の金利自由化、保険制度の改革等の規制緩和項目が具体的に盛り込まれるとともに、実施時期の明確化が求められ、行政の抵抗を「排除」する仕組みが導入された。この閣議決定では、さらに、規制緩和計画の策定と規制の新設審査制度の導入、規制緩和白書の作成が確認され、規制緩和計画策定の機関として、行政改革委員会の94年12月に設置されていくことになる。なお、94年6月には、行政改革推進本部が「今後における規制緩和の推進等について」を決定し、住宅・土地、情報・通信、輸入・流通等、金融・証券・保険の各分野を中心に279項目の規制緩和措置を決定している。
行政改革委員会の報告をうけて、政府は95年3月に「規制緩和推進計画について」を閣議決定(村山内閣当時)した。この内容は、住宅・土地、情報・通信、運輸関係、金融・証券・保険など従来から引き継ぐ分野に加え、労働者派遣事業や、女子保護規定、労働時間の規制緩和、労働契約期間の見直しなど雇用にかかわる労働分野や、公害等の分野の規制緩和項目を盛り込むなど、財界等の要望を色濃く反映した1096項目に及ぶものであった。当初5年計画とされていたこの「規制緩和推進計画」は、わずか2週間後の「緊急円高・経済対策」で3年計画に短縮され、96年3月には計画の改定が行われるとともに、12月には「創意で造る新たな日本」と題する規制緩和推進計画見直しの報告が行政改革委員会からおこなわれ、97年3月に最終改定されることになっている。

行政改革における
規制緩和の位置づけ

以上述べた経緯からもうかがえるように、行政改革の中での規制緩和の位置づけは、周辺状況の変化をうけて大きく変化してきていると考えられる。
規制緩和の目的として、その推進者たちは概ね次の点を主張してきたのではないかと考える。
(1)公的規制を減らすことで、国民の負担を軽減し、行政の簡素化・効率化がはかられ、民間の能力発揮の場が広がる。結果として「小さな政府」が実現する。
(2)内需主導型の経済に転換し、輸入拡大による内外価格差是正など経済構造の調整が進む。
(3)消費者・生活者重視の政策にシフトし、高度経済成長型の政策から脱却する。
(4)行政の透明化が確保され、いわゆる「政・官・財」の癒着の解消につながる。
などの点である。
第2臨調から、3次にわたる行革審の段階は、行政の簡素化・効率化、あるいは民間活力の活用の観点から、許認可事務を中心とした規制緩和が大勢を占めていたように考えられる。また、経済対策の側面がより強調された細川内閣、羽田内閣時点では、WTOの条約批准との関係もあって、国際基準との調和の側面と内需主導型の経済体制への転換がより強調されたものと考える。今日時点では、これらの主張が影を潜めたといえる状況ではないにしても、村山内閣以降の規制緩和は質的に進化した状況に至っていると思われる。
96年7月に、行政改革委員会が明らかにした「規制緩和に関する論点公開事項一覧(全38項目)」では、適格退職年金の資産運用規制の撤廃、病床規制の見直し、学校選択の弾力化、教育内容の多様化など、経済規制とは考えられずかつ国民生活の基本にもかかわる項目にまで及んでいる。
経済構造のあり方を検討していた経済審議会行動計画委員会は、審議の途中では税制での「配偶者控除」や賃金での「扶養手当」も雇用の流動化を妨げる「規制」だとする論議をおこなったことが報道されている。電機や自動車産業などをはじめとして、大企業が海外生産を増大させ、多国籍企業化しているもとで、これらの企業の活動の障害となる事象は全て経済規制として撤廃をもとめる動きが、かつてなく強まっている。
経団連が96年10月に政府に提出した「規制の撤廃・緩和等に関する要望」では、その要望項目は600を超え、広範な分野での規制緩和を求めている。経団連は、規制緩和が「経済構造改革の梃子」だとして、「内外価格差の是正」「企業家精神の発揮を推進力とした経済構造の改革」「行政機関のスリム化と民自律を基本とした官民の活動分担」「国際社会との調和の実現」をその効果として主張している。そして、「行政機関が国民(企業)の権利を制限」し「業務を課すこと」に強く反発している。
行政改革委員会の「規制緩和推進計画見直し」報告でも、規制緩和には「聖域はない」とした上で、次のように述べている。
(1)運輸、情報通信、金融その他の分野における社会的規制については、「非効率な既存事業者の温存を避け、活力ある新規参入者を歓迎するとの考え方へ、抜本的に転換すべきである。
(2)医療、福祉、雇用・労働、安全規制その他の社会的規制に関しては、「自己責任と個性重視といった国民意識の変化、将来の日本の姿などを踏まえた根本からの見直しが必要となっている。
そして、「(規制緩和による)競争の結果生ずるのは弱者ではなく敗者」とまで言い切っている。
これらの主張に共通するのは、国や地方自治体などの政府が、法律等に基づいて国民生活にかかわる基準を持つこと自体を「競争を阻害する悪」と位置づけ、国民は自己責任のもとに「自立」した生活を営むことを「善」とするものであり、「競争」の結果に対する「救済」もふくめて、政府が関与することを否定するものである。これは、国民が長いたたかいの末に勝ち取ってきた福祉国家における諸権利さえ否定し、文化的で健康な生活を国民に保障する政府の存在さえ形骸化させかねないものといえる。
行政改革委員会のこの点での考え方は一貫しており、同委員会が12月に報告した「行政関与のあり方に関する基準」でも市場原理優先が前提に、「公平な所得配分」の実現にむけても「行政活動の範囲を可能な限り狭く限定」することを求めている。この「基準」をもとに、行政改革会議では行政機関の再編・統合を議論するといわれている。
このように見てくると、今日時点の規制緩和は、単に行政をスリム化して組織のあり方を結果として規定するという程度の位置づけではなく、財界の求めに応じて、福祉型国家から夜警国家に質的に転換させるための「装置」であり、このような国家の質的転換を国民に受忍されるための主要なイデオロギーの役割を持っているのではないかと考える。

おわりに

政府・財界が進めようとする行財政改革は、国民生活からみれば政府の役割の「質的転換」をもたらすものであり、国家改革とも受けとめられるものである。
「国民生活にかかわるナショナルミニマムは確立した」「企業による搾取の危険性はなくなった」などとする一方的な主張に基づき、社会保障や雇用にかかわる政府の責任をあいまいにする行財政改革は、「百害あって一利なし」のものである。
その行財政改革が、行政改革会議を通じて、全面的かつ統一的に、しかも極めて反動的に進められようとする今日、これを押し返すために、国民統一戦線的なたたかいが求められている。すでに、行財政改革の影響を直接うける様々な分野での共同闘争が一定前進しているが、個別の運動の積み重ねでは不十分さがあるのではないかと考える。
今問われなければならないのは、「何のため」「だれのため」の行財政改革であり、政府の国民に対する責任(=公的責任)の具体的な内容なのではないだろうか。
国公労連は、そのような立場から、「民主、公正、効率」の国民本位の行財政確立をめざした「国公労連の提言素案」を作成し、それへの賛同と行財政の民主的転換を迫る共同の取り組みを追求する国公「大運動」を春闘期から展開し、国民的な運動の一翼を担う決意を固めている。
橋本行革ともいわれる今回の行財政改革の攻撃が、極めて政治的な背景と仕組みで進められようとしているが、橋本政権が過半数割れの不安定政権であることを考えても、たたかいの展望は暗いものではない。たたかいの重要な鍵は、橋本行革の真の狙いと対峠した運動の広がりにあると考えている。
(注)
*1 「3党合意」文書では、行財政改革遂行の首相直属機関設置、中央省庁の統廃合、地方公務員の合理化、財政再建法の検討などを行財政改革課題として一致している。
*2 1府13省すべてからの出向ではなく、庁などもあわせて10省庁・委員会からは事務局に出向していないため、様々な憶測をよんでいる。
*3 経済審議会、財政制度審議会、税制調査会、資金運用審議会、地方制度調査会、地方財政審議会、社会保障制度審議会などが「統合」の対象と考えられる。
*4 橋本首相は、11月27日、第139回臨時国会の所信表明で、行政改革、経済構造改革、金融システム改革、社会保障構造改革、財政構造改革、教育改革を内閣の最重要課題と述べている。
*5 例えば、96年5月3日付の読売新聞は、「内閣・行政機構改革大綱提言」を掲載し、首相に「基本方針発議権」「行政機関直接指揮権」を付与するなど権限強化を主張した。
また、第3次行革審最終答申でも、内閣総理大臣の指導力の発揮を強調して求めている。
*6 憲法第66条
*7 内閣法第3条
*8 内閣法第6条

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