『国公労調査時報』1998年2月号より |
年明けの通常国会と98春闘は、「橋本行革」とのたたかいの正念場−行政改革会議「最終報告」を読んで国公労連中央執行委員長 藤田忠弘 |
論語に「巧言令色鮮矣仁」という言葉があります。これは、言葉たくみに相手にとりいろうとする人は仁の心に欠けた人である、という意味を持つそうですが、「最終報告」を読んで、私はこの言葉を思い出してしまいました。 たとえば、この「最終報告」の「はじめに」や「行政改革の理念と目標」には、「この国のかたち」とか「個人の尊重」という言葉が数多く登場するのですが、それが余りにも手前勝手に使われており、欺瞞的であるし、言葉のすり替えというほかないのです。 まず「この国のかたち」についてですが、周知のとおり、これは故司馬遼太郎さんの作品の題名です。しかし、「最終報告」をいくら読んでも、引用者たちがこの作品から何を汲みとろうとしているのかがわからないのです。あえて推測すれば、国民の多くから親しまれた司馬さんの作品名を利用することによって世論にとりいろうとしたものではないか、といわざるをえません。 司馬さんは、この作品のなかで明治維新についてふれ、「革命」というものにおける「思想、熱気、理想」の大切さ、つまり志の高さの重要性を強調されています。一方、引用者たちは、今回の「行政改革」を、明治維新、敗戦後の改革、などとならぶ「転換期」だといいます。だとすれば、まさに、そこをつらぬく「思想、熱気、理想」こそが問われなければならないと思います。 その意味でいえば、「最終報告」から私なりに読みとることのできるのは、「個人の尊重」といういいかたによる国の責任放棄であり、「制度疲労」を口実にする強権的国家の構築であり、「国際社会への貢献」の名による軍事大国化の追求、などの諸点です。そして、これらが各論につらぬかれているわけです。 もう一つの「個人の尊重」という問題です。この点は、「中間報告」にくらべてはるかに多くの字数を費やしているのですが、そのねらっているところは、「個人の尊重」をくりかえし強調することによって、国民生活に負うべき国の責任放棄を正当化する点にあると思います。 とくに、「国民の統治客体意識、行政への依存体質を背景に、行政が国民生活の様々な分野に過剰に介入していなかったかに、根本的な反省を加える必要がある」とか、「われわれの取り組むべき行政改革は、もはや局部的改革にとどまり得ず、日本の国民になお色濃く残る統治客体意識に伴う行政への過度の依存体質に訣別し、自律的個人を基礎とし、国民が統治の主体として自ら責任を負う国柄へと転換する」などと述べている点は憤りさえ覚えます。 「行政への過度の依存体質」とは、よくもいえたものだと思います。いったい、この国の行政は、国民をそんなに甘えさせてくれたのでしょうか。また、そんなに情深い行政がおこなわれたのでしょうか。断じて否です。あの阪神大震災への対応や、医療・福祉の現実をみるだけでも、それははっきりしています。 年が明ければ、阪神大震災は満3年になります。にもかかわらず、被災者への公的援助は放置されたままです。政府が「財産を増やすのも、失うのも個人の責任」といい、「災害による個人の財産被害を公的に補償することは不可能」との立場に固執しているからです。あの住専処理や金融破綻への血税投入との対比でみるとき、この理不尽さへの怒りをおさえることができません。 ところで、この国の支配勢力は、これまでにも、「政治改革」、「規制緩和」、「国際貢献」などの重要問題で、たくみな世論誘導をはかってきました。その際の主要な手口が、実は言葉のすり替えであったと思います。 「政治改革」の場合には、「小選挙区制」と「政党助成金」を導入するために、世論を逆手にとったのでした。「規制緩和」では、「ルールなき資本主義」にむけて、労働法制の改悪が「規制緩和」の名を騙ってすすめられつつあります。そして、いまふたたび、自衛隊の海外派兵が、「国際貢献」を口実にたくらまれているわけです。「行政改革」もまた、こうしたすり替え、欺瞞的手法によって推進することがたくらまれているわけです。 しかし、橋本政権をみる国民の目は急速に変化しはじめていると思います。それは、この政権の失政自体がもたらしている結果でもあるし、われわれのたたかいの反映面でもあると思います。1月からの通常国会と98春闘は、「橋本行革」とのたたかいの正念場になると思います。正念場にふさわしくたたかい抜き、勝利したいと思います。 |