日本型エージェンシーの姿は現在でも明確ではありませんが、ここでは、イギリスの改革に照らして、日本におけるエージェンシーの問題を考えてみます。
イギリスでは、公務員制度の改革を行う前に大幅な国有企業の民営化というものをサッチャー政権、メジャー政権のもとで進めてきました。イギリスでは政権は労働党に変わっているわけですが、いまの段階で民営化のところを公務に戻すとか、エージェンシーのところを元に戻すという議論の方向にはなっていません。
公務員制度の改革をしてエージェンシーに進めることは、実は最終的到着点がエージェンシーであることを意味しません。イギリスの場合には、たたき売れるものは何でも売る、これは行政だけに限ったことではなくて、立法機能であるとか、司法に関わっての一定の司法機能のところについても、民間のたとえば弁護士事務所であるとか、そういったところで行うことができるならそれに委ねていいという発想を持っています。その意味では国家機能の限界がないものですから、エージェンシーになったものについても、効率性が改善されて民営化が可能になったならば民営化してしまうことになります。
簡単にイギリスのことを紹介した上でないと、日本がどう違うかとか言えないと思いますので、まずイギリスを紹介させていただきます。また、エージェンシーの問題をエージェンシーだけ取り出してみても評価を誤る可能性があると思いますので、もうちょっと広く、これに関わってどんなことが問題になっていたのかということを紹介していきます。
まず「市民憲章=シチズンチャーター」を紹介します。1991年に、保守党政権は、名前は「市民憲章」といっているんですが、基本的人権の保障とか、そういったものとは全く違った中身の提案を行っています。その中身は、1つは民営化であるとか、民間委託、規制緩和というサッチャー政権の下で行ってきたものを、メジャー政権の下でも継続することを明確にしました。それから公務員制度改革というものを進めていくということをいったわけです。ここまでは特別新しくはないんですが、1つメジャー政権になって新しいものとして、狭い意味での市民憲章政策というものを打ち出しました。
どんなものかというと、まず6つの公的サービスの原則を打ち出します。「公的サービス」というんですが、民営化された電話、ガス、電気といった公共性の高い公益企業のところにおいても妥当する原則です。1つは基準の設定で、どのようなサービスを提供するのかについて基準というものをつくっていく、「こういったことを国民、市民の皆さんには提供しますよ」という達成目標を設定し、それを公に示して、現実にできたかどうかを、たとえば1ヵ月の単位であるとか、1年の単位で出していくわけです。2つ目は、十分に情報を提供するということです。3つ目に、消費者、市民のための選択の余地を広げるとか、消費者の声を反映したようなサービスの提供を行う、4つ目に、障害者とか外国人であっても等しくサービスを利用できるよう、その援助をするとしました。5つ目には、サービスの提供の中身を明らかにしていくと、いままでは不満というのは出なかったけれども、目標を掲げておいて、現実にそれが達成できないということになると、当然「看板に偽りあり」ということで、どんどん苦情が出てくるだろうから、その苦情を処理するための苦情処理手続を整備し、可能なところでは第三者を入れて、第三者機関というものをつくって苦情処理をしていくとします。さらに、検査とか、監査というところで非公務員も利用していくということをいっています。最後に、イギリスの保守党政権における従来からのキャッチフレーズで日本でも最近よく出てきますが、バリュー・フォー・マネーです。一定の金銭に見合った価値の実現といいますか、効率性というか、それを重視した考え方が出てきます。
このような政策は、イギリスの保守党政権の下で行われましたが、もともとをたどっていくと、イギリスの労働党が自治体で、住民に対する公約として「私たちが提供する行政というものはこういうことをやるんだ。このことによって皆さん方の利益に役立つことをするんだ」という政策をとっていったのを、メジャー政権が中央レベルでそれをまねて行ったとされております。このことによって目標が明確になって、情報が公開されて、その意味では、本当に効率的にある仕事をやっているかどうかも明らかになっている側面があるわけです。
この基準の設定・公表の評価はどうかというと、うまく目標を達成できたかどうかの前の段階で、そもそも正しい目標が設定されているのかどうか、また、正しい目標がされたとしてそれを実現するために金銭的な投資であるとか、人員の配置であるとか、そういったものがなされているかどうかが疑問であるということが言われています。また、何か不満があったなら苦情を言ってきてもらい、それに対して一人ひとりに対応するという問題もあります。
具体的にイメージしやすいところで言うと、イギリスの鉄道です。日本の鉄道とは違って、イギリスの鉄道というのはよく遅れます。遅れるだけならまだしも、動かなくなります。時刻表には載っているんですが、実際には走らないということがあります。メジャー政権はこれに対してどんなことをやったかというと、たとえば鉄道の領域における目標ということで、路線によっても違いますが、99%は確実に走る、90%は5分以内の遅れで着きますとか、こんな目標を出しておいて、時間通りに走らなかったらどうなるかというと、1時間以上遅れると、チケットを値引きして買えるとか、ノンアルコール飲料を車内にある限り飲み放題になるとか、こんな対応をするんです。
しかし、なぜ走らなかったり、遅れるのかというと、指摘されているのは、イギリスの鉄道は古く、それを改善するためには当然新しい施設をつくらなければいけないけれど、かなり巨額な投資が必要で、その投資をしないということです。お金はかけないけれども、目標だけは設定しておいて、職員たちに「そのとおりに何とか努力しなさい」ということを言う、お金はかけないでおいて、苦情がくるとノンアルコール飲料を出してしまったり、ディスカウントチケットで出してしまう、そうすると巨額な投資をするよりも安上がりで、個別にきた苦情は形の上では一応全部処理されることになります。根本的な解決にはならないけれども、表面上は問題が解決されたかのようになるわけです。
こういう情報を提供するとか、いろいろな数値を設定するとか、お金をかけないという流れの中で、エージェンシーの問題も出てきます。公務員制度自体の問題というのもイギリスではずっと前からありまして、イギリス公務員の特徴としてアマチュアリズム、専門性がないということや効率が圧倒的に悪いことが言われていました。このようなことを改善するためにどうするのかというのがイギリスの公務員制度改革の出発点だったわけです。
この効率性の問題というのは30年以上も前からずっと意識はされていたのですが、なかなか本格的な手を打たれていませんでした。サッチャー政権になって、公的サービスを効率的にやるためには民間部門の人に調査・提案させればうまくいくということで呼んできました。また公務内部では、実態調査をしてどのような不効率があるかを調査し、そういう中で財源とか、人事であるとか、いろいろな情報を大臣とか、上級公務員のところに集中させて、効率性についても意識をさせたほうがいいんじゃないかということになりました。もともと上級公務員は、大臣に対する政策助言だけを考えていればいいと言われていましたが、それではだめで、効率についてももう少し関心を持っていかないといけないと考えに変わってきたわけです。
ところが、大臣であるとか、上級公務員の人たちが管理のことをずっと考えていくわけにはいかないし、管理のことについて詳しく知らない、プロとはいえないため、政策形成のところにずっと関心を持つ部門と、そうではなくて執行の部門のところに時間をかける人たちは分け、執行部門は民間部門の経営者をトップにつけたほうがうまくいくのではないかということで、「政策と執行の分離」ということを言い出したわけです。
イギリスでは、「95%まではエージェンシーにすることが可能である、5%についてだけは政策形成機能を図ればいいんだ」ということを言ったわけです。日本のように、こういった基準で、この基準だと外局へ行くとか、この場合には独立行政法人へ行くとか、そんなような基準はなくて、95%、ほとんどのものはもうエージェンシーでいくんだということです。しかも、その中で基準を立てるということではなくて、とりあえずやれそうなものからやってみようということで何年にもわたってきています。
さらに、エージェンシーになったものが、効率が改善すると、そこまで効率が改善していったならば商売としても十分やっていけるだろうということで、民営化可能になります。エージェンシーが民営化されているところが増えています。
エージェンシーは、大臣と執行についての責任を負っているエージェンシーの長であるチーフ・エクゼクティブで一般的な文書(フレーム・ワーク・ドキュメント)に基づいて経営の計画とか、年次報告書とかを出します。「エージェンシーでは1年の目標としてどんなことをやるのか」という目標を設定し、その目標を達成するために、財源とか、人事についての権限を比較的自由に任せています。ところが、一定の目標を立てたら、それに見合うだけのお金を十分に出してくれるかというと、必ずしもそうではありません。大蔵省の統制が相当きつくて、大胆に予算をカットし、その中でやってくれということを言うわけです。もちろん予算がカットされれば、その中で効率的にせざるを得なくなり、いままで人でやっていたところをコンピュータ化するとか、相談業務をやっていたところを全部カットしてしまうとか、こういうことをやらざるをえなくなります。他方で数値目標は掲げておいて、その数値目標を達成して、達成したから効率性が改善したというようなことを言っています。一定の効率性の改善はあるんでしょうが、エージェンシーになったからではなくて、予算が削減されて、その中で効率性を追求せざるを得ない側面もありますし、一定の成果を上げればボーナスが余分に出るというインセンティブも働かせています。
予算の問題とか、将来的には民営化されるかもしれないとか、トップに民間企業の経営者たちがくるということで、公務員の意識というのは当然大幅に変わります。また、エージェンシーごとにかなり自由な権限が与えられますから、たとえば全く同じ仕事をしていても給与も変わってきますので、公務員としての一体性、統一性は失われてきます。公務員自身の士気の問題にも関わってくるわけです。
さらに、お金をかけないということから、効率性を改善するという目標とは違って、現実には申請処理ができなくて遅延問題が発生して国会でもそれが取り上げられとか、また、日常業務についてはエージェンシーのトップ、政策については大臣が責任をとることになっているんですが、たとえば刑務所から受刑者が脱走した責任は一体だれがとるかが問題になり、大臣としてはエージェンシーのトップの責任だから自分はそれに対して責任は負わないとして、責任を全部押しつけてしまうといったことも行起こっています。国会で追及しようと思っても、だれをどう追及していいのかが明らかではなくなってきて、国会による責任の追及がしづらくなっているわけです。他方で大臣とエージェンシーとの関係では、大臣のコントロール権限というのは高まってきている実態もあります。
イギリスについて勉強したり、現実に調査に行ったりしますと、日本はかなり異なる文脈で異なることが目的とされているにもかかわらず、同じ言葉が使われているのではないかという印象を受けます。民営化の場合にも、広範な国有企業が存在し、しかもそれがうまくいかなくて問題になったイギリスと、国有企業が十分にない中で民営化が行われた日本では、民営化前の状況は相当異なっています。エージェンシーの問題でいっても、たとえば効率性一つをとってみてもイギリスと日本の状況というのは全く異なっています。イギリスで効率性に関して出ている目標というのは、日本ではとうの昔に達成したようなものが出ていて、日本のほうが効率的に行われているものを、わざわざ「イギリスにおいて効率性の改善というもののためにこんなことが行われているから、日本でもやろう」という、ある意味ではもう行っているものを一周遅れというか、逆に進んでいるというか、それにもかかわらず形をまねるというところに無理があると思います。
総じて、日本で議論されるときには、せいぜいイギリスの制度のつまみ食いというところかと思います。もっといえば、わかっていながらただ形だけを利用するために、日本では日本でやりたい目的があって、そのために何となく意味がありそうな評価をされているイギリスの「改革」を使っているに過ぎないのではないでしょうか。たとえば、エージェンシーをとってみると、政府が紹介しているイギリスのエージェンシーの要点はその通りだと思うんです。ただ、何が公務員制度の最大の問題点としてイギリスにおいてエージェンシーの提案があったのかといったことや、エージェンシー導入後効率性が改善されたとか、情報が公開されたということも、組織がエージェンシーになったから変わっただけではなくて、エージェンシーに関連した、結びついた政策と合わさって一体となって変わっているにもかかわらず、日本で提案したときには、さも組織を、形態を変えたからうまくいったというような紹介がされているのではないかと思います。つまり、そのものだけを取り出して紹介した場合には正しいんですけれども、なぜそういったことをやっているかとか、なぜ一定の結果が出たかというときには、それ以外のものも広く含めて考えなければいけないにも関わらず、そういったものを全部捨てさっているのではないでしょうか。
イギリスの場合には、効率性というのが一番の問題とされて、それを追及してきたわけです。日本の場合の公務員制度の問題点を考えたとき何が一番の問題かということですが、少なくともイギリスのような効率性とは言えないのではないかと思います。大きな問題は、わが国の場合にはどのように民主的なコントロールを確保するのかがポイントではないかと思います。そのように考えてみたときに、現在の日本型エージェンシーがその目的を達成できるものになっているのかどうかが問題になります。イギリスの場合は、エージェンシーはあくまで省の枠内で、大臣が自由にその内部の組織をいじることができる、大臣が国会に対して責任を負うということから自由に内容を決定できるようになっています。日本は、外局はともかくとして、独立行政法人になって、それが特殊法人に近いものになっていったときに、それに対する民主的なコントロールがはたしてどの程度可能なのか、明らかにそれは後退し、よりいっそう深刻な問題を生むのではないでしょうか。
情報公開の問題についても、イギリスではエージェンシーの方の情報公開は進むのに対して、逆に残った本省のところでは、情報を秘密にしやすくなり、政策形成レベルにおける情報というのはいままで以上に出なくなるのではないかということが指摘されています。日本の場合にも同様に、エージェンシーなどによって本省の部分を小さくしていくと、その部分の情報公開が進まないのではないかという問題もあります。執行に関わるものでも、イギリスの場合には問題点もありますが、国民の声を反映するために、一定の基準を設定するためにその声を聞こうとか、苦情処理の手続を整備するようなことを言っていますが、日本ではそういう提案は見られません。
さらに、責任論についても、イギリスで大臣によるエージェンシーの秘密裏でのコントロールというものと、国会によるコントロールの低下があって、どのようにコントロールを確保していくのかが、国会でもずっと議論がされているんです。ところが日本の場合には、行政改革の議論はやって行政の中での議論が進んでも、国会によってどうコントロールすべきか、ここのところは全くないものですから、民主的コントロールの確保の点からは、大きな不安があります。
結局、日本の場合には「日本型」エージェンシーとして、イギリスの改革をよく言ってもつまみ食いするものであって、実は全く違った改革を考えている疑いがあると思います。
専修大学教授・白藤博行
地方分権推進委員会の第二次勧告に至ったこの時点での評価というのは、私からすると「反地方自治的地方分権」論と評さざるを得ないという気がします。そこで、「地方分権」論が行政改革会議の中での議論としてどう位置づけられ、なぜ議論されなければいけないのかをお話したいと思います。
最初に、行政改革会議の登場というのは、本格的な「日本改革」が始まったと見ていいだろうということです。「日本改革」ですから、地方分権がそこに位置づけられているのは当然なことです。エージェンシーの問題も、大くくりな中央省庁の再編問題もそうですが、行政改革の構図は次のようにまとめられるかと思います。
中央省庁の官僚機構がたいへん大きな機構になり、かつ膨大な事務を処理することはだれもがそう思っているところで、そこで実施機能を切り離し、政策、あるいは企画立案機能といったものを中央省庁の本体に残そうということです。イギリスの場合はもっと大胆にということですが、企画・政策の立案機能というたいへん大事な頭脳に当たる部分を中央省庁に残し、手足になる部分をエージェンシー、特殊法人、外局、場合によっては民間化し、特殊会社とか、民間の会社にゆだねるという、明らかに一種の機能分担が行われていることになります。
そのように見ると、実にうまくこの間の「改革」ができていて、本当であれば中央の政治が混乱した55年体制が崩れるときに、政治家なり、あるいは財界なりはそういった「改革」を行いたかったかもしれないが、政治の無力などいろんな事情があったんでしょうが、いまのような中央の官僚制改革に直ちに手をつけることができなかったのだと思います。そこで、手のつけ方の問題として、第一パートとして「地方分権」という手法を使って中央の国家機構、あるいは地方官僚制の改革に手をつけ、国と地方公共団体との間の機能分担を進めることによって、そこでの「地方分権」を手段とした国家機構の改革、組織の改革、事務の改革を図ったと見ることができます。
そうすると、この間ますますはっきりしてきたんですが、地方分権推進委員会の答申は最初は非常に高い志もあったと思います。行政学のかなり高名な方で、ある意味では信頼度の高い方々がそこにはいり込んだということもあるんですが、多くの研究者も批判することすら許されないような環境になってしまいまして、様子を見ようというか、お手並み拝見という状態がずっと続いてきたわけです。しかし、結局は、政策立案といった大切な機能はやはり中央省庁に残して、後の残りの手足の部分、つまり実施機能の部分を自治体に任せることがはっきりしてきたと思います。この結果、中央レベルでの政策立案機能と実施機能の分離が中央省庁再編であり、中央と地方との関係におけるそれが「地方分権」というわけです。いわば「大機能分担」とでもいうべき改革が行われている図式になっているということになります。したがって、中央の官僚機構が政策立案機能に集中できるシステムをつくり、それが自由に機動的に、機能的に働けるようにするというのが一つの暫定的な目標だと思います。
しかし、それだけでは官僚支配を許すだけになりますので、その先にそれらの官僚制を統制する政治による行政支配、政治主導による官僚支配というのが必要になってきて、内閣機能の強化とか、官邸機能の強化とかいったものが射程に上ってくるということになります。そういう形で、この間の政治機能の強化、内閣機能の強化論が出てきていると見ています。これは、日経連が出しています「ブルーバード・プラン・プロジェクト」(BBPP)を見れば見るほど、財界で書いている図式と全く同じで、日本の支配機構というのはうまくできているものだなと思っている次第です。政治と財界の「協働」からなる「協働的中央集権国家」の構築がもくろまれ、「地方分権」は、その中に位置づけられます。
つぎに、地方分権推進委員会の流れをずっと見てきた結果、一体どういうことから反地方自治的地方分権だと評さざるを得ないのかということです。中間報告が96年3月に出されていますが、そこでは地方分権の背景とか、理由、あるいは目的、理念、改革の方向についての共通の認識とか、基本姿勢といったものがかなり鮮明に出されています。国と地方公共団体の関係がこれまでは上下・主従の関係にあった、それを対等・協力な関係にしようじゃないかとか、あるいはこれまで事実上の行政統制がはびこってきた、それらを払拭して立法統制、あるいは司法統制といった方向に一歩踏み出し、日本の地方公共団体と国との関係をもう少し法的なものにしてみようじゃないかといった、私たち法律家から見ると納得せざるを得ないような理念が掲げられていたように思います。
そういう理念、基本姿勢が、堅持されたかどうかというのが、私にとっての問題関心でして、そういう観点からみますと、今回の第二次勧告では「地方分権推進計画に着実に具体化され、実施され得る現実的で実行可能な改革案というのが必要」だとして、官僚のトップと、地方分権推進委員会がグループヒアリングと称する膝詰め談判を毎日のように繰り返すことによって、これならやってくれるかとか、ここまでこちらが譲歩すればこの事務は自治事務にしてくれるのかとか、そういう話を詰めてきました。その結果よくなればいいんですが、決してよくはなってこなかったように思います。とくに、地方分権推進委員会は、今回の獲得目標として機関委任事務を中央、地方の象徴的な関係の問題として取り上げ、それを廃止するところまでこぎつけました。これまで戦後、機関委任事務が問題にされ、さまざまな団体や研究者や実務家から批判があったにもかかわらず、決して実現されてこなかったことであって、各種提言類でも廃止まで提言したというのは初めてのことです。縮小整理とか、見直しというのは何回かあって、実際に法的にもそういう場面もあるんですが、残念ながらそこまではなかなかいかなかったものを勧告に書いたことまでは評価できると思います。
機関委任事務、あるいは機関委任事務制度が何ゆえに廃止されなければならないのかといえば、国家による地方公共団体への恣意的な関与、強い関与というのが問題であったわけです。その関与をなくして、対等・協力な関係にしようといういうのが地方分権推進委員会の目標であったはずですが、廃止後の事務の新たな分類とか、それに対する関与のあり方の問題を見てみますと、とんでもないことが起きています。機関委任事務が廃止された後に、新たな事務分類として、一つは法定受託事務というのをつくる、もう一つは、自治事務というのをつくろうということです。そのほか、もちろん国が直接執行するという事務もあるということなんですが、この法定受託事務と自治事務というのは、名前で見るとたいへん期待できそうな話ですが、振り分け自体も問題ですが、それぞれの事務の概念からしてみてトリックが幾つかあります。法定受託事務というのは、地方公共団体が執行するという意味では自治体の事務なんですが、分権推進委員会にはこれは当然国の事務なんだというのが頭の中にありまして、したがって国が関与するのは当然だということになります。自治事務と称してはいますが、自治事務もいまの事務分類でいいますと、事務の性質上本来的に自治体に帰属するという意味で自治事務とは考えておらず、いわば団体委任事務というものに分類されるものに過ぎないものであって、団体委任事務なんだから当然国は関与するんだと考えているわけです。すなわち両者への関与はものすごく根強いものがあります。
法定受託事務に関して言いますと、権力的な関与としては許可とか、認可、承認といったものがありますし、あるいは指示することもできることになっています。ですから機関委任事務をなくしても何も中央省庁は困らないし、非権力的な関与はこれまでどおり当然に行われます。より悪いことには、機関委任事務の場合には、機関委任事務を適法に執行しないとか、あるいは中央のいう通りに執行しないという場合、そういうこと自体が違法だと考えられたときに、中央省庁がただちにかわりにやるとか、あるいはむりやりやれということをごり押しすることはできないシステムがありました。たとえば、沖縄の基地問題で、職務命令執行訴訟という裁判所の判断をまず仰いで、その判断に基づいて中央が言っていることが適法なのか否かを判断させ、その上で適法だというならば地方が従えという話になるわけです。そういった、裁判所を通したチェックがかかっていたものが、今度は、国と地方公共団体との間に第三者機関という紛争の処理機関が設置され、そこで決着がついたらそれで終わるかもしれない、あるいは裁判になる前には、必ずそこにまず裁定の申請をしなさいということになるかわからない、そういうことがいろいろ議論されています。場合によっては、第三者機関の判断を通せば代執行まで可能であるということもシステム化されるかもわからない。そういうように法定受託事務は決して国の関与が減ったという事務ではないということがはっきりしました。
さらに、自治事務に関しても指示とか、是正の勧告、是正措置要求等が可能であるとなったり、あるいは事前協議というものが義務づけられることが問題です。第二次勧告では、とくに都市計画に関して、市町村にかなり事務が下りたんですが、残念ながらそれも自治事務といいながら、合意が必要な事前協議が義務づけられています。そうなってくると、機関委任事務廃止という中心になって獲得しようとしてきたことにおいてすら、実質を見ると、あまり得るところはなかったように思われます。
分権推進委員会の性格をあらわにしたのは、必置規制とか、地方行政体制の整備といったところだと思います。必置規制のところはもちろん自治体の組織自治権という観点からいくと、自らのことは自らで決める、自らの自治体がどんな行政機関や職を置いてどういう活動をするかというのは、自分たちで決めるという組織自治権の観点だけからすると、必置規制を緩和したり廃止することはいいように思われるんですが、その観点だけから必置規制を決めるわけではないんです。社会保障などはとくにそうですが、国が生存権保障等のために果たす役割というのがあるわけであって、それに基づいて個別の法律では、こういう場合にはこういう資格の人が携わらなければいけないだろうとか、こういう機関があることが望ましいだろうとかいうことが決められているわけです。国民が生活するための生存権の最低限を保障する制度として考えられているわけですから、もし自治体の組織自治権が大事だとか、その観点から必置規制をなくすということであれば、それにかわるきちんとしたシステムを考えていかなければいけません。つまり、必置規制を緩和したり、廃止するための条件づくりをしなければいけないのです。そこをしないで、今回やたらとこの部分だけ具体的でしかも数が多いのです。私などは「分権型福祉増幅国家」というようなことを言っているんですが、そういう観点からするととんでもないことだというふうに思います。
それから、自治体の行政体制の整備に関して、国の省庁再編等と共通する面を持っているのかと思うんですが、行政の効率化が最優先されるという形で展開されています。第一次勧告までは、地方行政体制の整備・確立のところの項目の並び方を見ますと、住民参加の拡大とか、強化、その次に行政の公正の確保とか、透明性の確保といったものが先にあって、いわば住民自治的な自治を実現するための地方行政体制のあり方はどうなんだろうかということがまずは問題意識としてあったように思います。行革はいわばつけ足しの形だったのですが、今回はまず基本的考え方のところで行革が大事なんだと、真っ先にくるんです。しかも、その直後に行政改革等の推進とか、市町村合併と広域行政の推進というのがきて、並びからしても行革が全面的に出てきている。その中身を見てみますと、行政改革等の推進のところですが、94年に自治省の次官通達で行革大綱をつくれといって、地方は一生懸命つくってきたわけです。ほとんどの自治体がこの3月に出来上がっています。ところが、今回第二次勧告を見ますと、いままでの行革大綱では行革の水準が低い、行革大綱をもう一度見直して、変えていって数値をしっかり書き出し、それを公表して住民にチェックさせるという、かなりえげつないやり方を言い出しているんです。数値を出せと一言でいいますが、考えてみたらそんなものはなかなか書けるわけがありません。それを無理にやらせようとしているということです。ほかにも、行革のための諸施策がいっぱい挙げられております。
もう一つ問題なのは、私は行革の中でとらえているんですが、区域の再編成です。つまり市町村合併にはたいへん積極的です。市町村合併特例法というのがありまして、一昨年改正され、住民の発議制度というのが導入され、住民の発議があれば合併協議会というのをつくって合併の準備をする、合併を進めることができることになったんです。ところが実際にはなかなかうまくいかない。住民の発議はあるんだけれども、議会がつぶしたり、あるいは首長のところでつぶすとか、いろんなパターンでつぶされるわけです。そこで、これからの行政の効率を考えているときに市町村合併がこれでは進ないというので、都道府県に市町村に合併を進めるように合併のパターンを提示させたり、アドバイスをしろとか、そういうことから始まって、住民発議があって議会でもしだめになっても、そんなこととは関わりなく住民合併協議会をつくって進めることができるというふうに法律を改正してしまえ、ということまで言っているわけです。こういうふうに、市町村合併をしてでも行政の効率を高めることを進めようとしています。ここにきて、「分権の受け皿」論が前面に出てきたということです。
したがって地方分権推進委員会の今回の大きな柱になってしまったのが、行革と市町村合併ということになります。こういう形で地方分権推進委員会における論議の中身が変質してきたというのが、この間はっきり見て取れるわけです。今後、自治体における行政の効率化、そのための区域の再編というのが大幅に進められると、想像せざるを得ないわけです。
こういう状況の中で、国と地方公共団体の関係、あるいは行政改革会議の行革論との関係でいいますと、ここにきて両者の関係が国家の官僚制改革を中心として展開され、行政の効率性といったものを中心課題としていることがわかります。
そして、私のいうところの「協働的中央集権国家」の先は、「国際貢献国家」づくりということであり、あるいは「現代帝国主義国家」の展開ということになるのかな、というふうに思います。
そういった流れを国民、住民のほうに持ってくるためには、各個別の法律の中で、一体どんなものが国の役割として期待され、あるいは規範化されているのか、どんな部分を自治体が担うべきだと憲法・法律はこれまで考えてきたのかという、いわば根本に立ち返った議論の立て方が必要だろうと思います。そのためには国家公務員の労働者と自治体の労働者が、双方から国民のため、住民のため、そして自分たちのためにどういった改革があるべきかを考え、お互いに協力し合って運動を進めることが肝心だと思います。