白藤
中央省庁再編に関わって先ほどもちょっと申し上げたんですが、エージェンシーとか、指定機関だとか、民間会社、特殊会社にという大きな流れを一体どうするのかを言うだけではなくて実際に分けていくわけですが、そういった場合に何を基準にしてやるのかというのが今後の大きな問題だと思うんです。公私が混合した形で行政を営んでいくという意味で、いわば「公私混同行政協働システム」を構築しようというところに問題のポイントがいくだろうと思うんです。
一番効率的であるとか、一番機動的である、機能的である組織によって行うという再編の振り分けの作業が今後必要になってくるわけです。そのときの物差しは一体何だろうかというと、行政改革委員会の官民活動分担小委員会がかなりいろいろとやっています。官民の分担、あるいはエージェンシーにするかしないかの基準とか、あるいは民間化するときの基準といったものはすでに一応のものを出してきているわけです。私たちはそれをしっかり見ながら、あんな物差しでいいのかどうか。先ほど来、民主主義という話がよく出てきていますが、民主主義という観点を入れるなら、入れた形での分担関係とか、そういったものが必要なのかどうか、あるいはそもそも民主主義の観点からいったら、そんなもの自体とんでもないことで絶対阻止だというふうにいくのかどうか、具体的に彼らがやっているような物差し論を分析してみる必要があるかなと思います。今後の省庁再編、行政改革ということになれば、その辺の議論が避けて通れないという気がいたします。
榊原
まずイギリスの場合で、公私の分担として何らかの明確なイメージを持っているかというと、よくわからないところがあります。少なくとも保守党政権のところでは「たたき売れるものはたたき売る」という発想で民営化を進めました。しかし、民営化を進めてみると現実の結果としてどんな影響が出たかというと、結局貧富の差の拡大であって、平等性とかが保たれず、富めるものはより富むし、貧困なものはより貧困へといくということにになってきて、民間部門には任せられないものがあるというのはある程度明らかになり、政権交代した労働党がどこまでどう守っていくか、それが問題になっているところなんだろうと思います。
それから政策部門と実施部門のあり方ですが、イギリスでは、効率性の改善というのが保守党政権より前から問題になっていて、多少の手は打ってはみたけれどもうまくいかなくて、最後の最後にエージェンシーに飛びついたというわけです。日本の場合ですと、何かわからないうちにいきなりエージェンシーというのが出て、これは一体なぜそれが出たのかというのではっきりしない点もあります。
イギリスの場合、効率性の改善というものは言ったんですが、もう一つアマチュアリズムというのがあって、政策部門のほうをどうするか、こういう課題も残っているんですが、こちらについては全く手つかずのようです。これによって専門性が確保されたとか、そういったこともないように思います。日本の場合を見ても、政策部門のあり方というところで、政策部門がはたしてよりよくなるかというと、イギリスと同じように特別、何も提案されていません。
実施部門ついても、組織が変わったからそれによって自動的に何かなるという話でもありません。たとえばいろいろな基準の設定を考えてみても、これもエージェンシーだから行ったわけではなくて、労働党が自治体のレベルでもやっていたわけです。ですからエージェンシーになってもならなくても導入できるし、エージェンシーになれば必ずそういうものができるというわけでもありません。
効率性の問題でも、大蔵省による統制が大枠のところは残っていて、それによっていろいろな問題は発生しています。労働組合は、労働党に必要なところにはちゃんとお金を出してほしいと期待しています。それでなければだめなんだということなんだと思います。
恒川
第二次行革審のころから規制緩和論がずっと出てきて、そこで盛んに官から民へ業務を移せという議論をしております。営利追求ということでやれそうなもので、いま官がじゃまをしているからやらせろという議論が当然出されているのですが、そういう基準だけで任務の分担をすることはできません。しかし、なぜか景気が低迷しているとか、低成長のまま上昇できない、ともかく規制緩和を進めれば日本経済はまた高く羽ばたくことができると、そう誤った錯覚を振りまくような議論が非常に強いと思われます。ですからそういう前提自体を変えていけるような議論をしていかないと、官民分担という議論は生産的なものにならないと思います。
確かに、現象的に見ますと、官でも民でも運営できるというものは探せばあるかもしれません。現に、現在の法制度の下でも社会福祉事業などは一種、二種というふうにして国とか、地方公共団体だけができるわけではなく、民間でもできるものも認められています。しかし、そこでの前提になっている各種規制の存在をも取り払ってしまったうえで、職業紹介もやらせたらいい、病院経営でもいま財団法人がやっているものを営利団体でも運営させたらいいじゃないかという議論が出てきています。そのような論調は、いままでなぜ法律できちんとした枠組みをつくって「公」自身、あるいは「公」がきちんとした規制をする中で民間にやらせることにとどめてきたかということのきちんとした総括を一切しないわけです。ただその部門にいまのままでは進出できないから進出させてほしい、それがいいかどうかは消費者、国民が決めるんだからいいじゃないかという議論です。確かに安上がりの病院でよい、といって利用する人間は出てくると思うんです。しかし、行政は、民間にやれるものはやらせたらいいということではなくて、そこに一定の人権保障なり、民主主義の保障という必要性が憲法体制の下で存在するから、いろいろな規制をかけてきたわけです。細かい議論をすれば、もう時代遅れになったとか、不必要なものもあるでしょうから、個別的な見直しは反対しませんけれども、一種の社会ヒステリー状態みたいになってしまって、個別的な問題は時間もかかるから省のあり方そのものから見直そうなんていうのは、普通の思考パターンからは出てこないと思います。
すでに国公労連とか、あるいは単組の方々の運動とか議論の中で、「いかにして現在までの公務を、ただ守るだけではなくてさらに発展させていくか」が明らかにされつつあるのですから、民営化とかエージェンシー化を想定したときに、それをまず日常的には関心を持たない利用者、国民に広げていくということが重要だと思います。私は何年か前、全建労の研修会に勉強のために出席させてもらったことがありますが、そこで各支部の方が報告されたことで印象に残っているのは、いろんな工事事務所で仕事をしておられて、地域の人に「ここで工事がある、建設省です」と言うと、「建設省って何ですか」と言われたことがあると言われていました。そのくらいの関心しか持たれてないことが事実だとすれば、そこも含めて克服していって、「皆さんもまだ名前はご承知ではないかもしれませんけど、われわれはこんなことをやってます」ということを、ていねいに細かく議論していくしかない段階だと思います。民営化や、エージェンシーという用語には、何となく飛びつきたくなるのかもしれませんけれども、マスコミのそういう動きは一過性でして、流行がさめるとみんなアッという間に忘れるものでしかないことが多いと思います。
官と民の分担基準というのは、固定的な物差しはないと思うんですが、戦後だけのことを考えても、50数年こういう形で行政が活動してきたということに、国民の多くもおそらく小さい不満はあっても、基本的には信頼を置いていると思います。たとえばちょっと前に白いかびが浮いていたミネラルウオーターが見つかった。するとみんなは「取り替えろ」と言うわけです。消費者の選択の自由で、汚れていても安い水なら飲むという人は出てこなかったと思います。それは地方公共団体であれ、国であれ、キチンとした安全とか、衛生の基準をつくってやっていることに消費者・国民の信頼があるからで、今後、「そういう枠組みすら捨てていいんですか」という話をしないといけないと思います。国家機能を分類、限定したら、現在のようなサービスはもはや不必要で、最低水準のものさえやっていれば国は国民からの批判を受け流すことができるという議論が幅をきかせているようですが、多くの国民はそこまでは考えていません。いかにも多くの国民が省庁再編を望んでるみたいな議論がされていますが、よく考えたら決してそうではないというところに焦点を当てて議論していけばいいんじゃないかという気がいたします。
榊原
イギリスの保守党政権のところでも、基本的な考えとしては、民間部門がやればすべてよくなるはずだというのがあったんです。その前は、労働党は、すべて国有化すれば問題はよくなるはずだと考えたわけです。だけど、答えとしてはいずれもノーだったと思うんです。労働党では特別な民主的コントロールの装置をつくらなくても、つまり国有企業になれば営利的なインセンティブがなくなるから、それによってすべてがうまくいくんだと考えたわけです。情報公開であるとか、参加であるとか、代表機関のコントロールといったことについてどういう制度をつくればいいかの議論なしに、その所有のあり方さえ変わればすべてがうまくいくと発想したこと、これは現時点で考えると、失敗だった。この改革を怠ったがゆえに、民営化への道を開いたというところは、たぶんイギリスでも一致していると思うんです。
他方で、民営化すればすべてがうまくいくかというと、これもそうでもなくて、民営化にはいろいろ問題があることが認識されて政権交代に至ったと言えるでしょう。
こう考えたときに、日本では果たして問題が正しく提起されているか、ここが実は一番大きいのではないかと思います。イギリスの問題点と日本のいまある問題点を明らかにしていくことが差し当たりは重要ではないでしょうか。
白藤
昨日、今日の新聞を見ていますと、国家機能云々のたたき台を出しているのが東北大学の藤田宙靖という先生なんです。たまたま彼のホームページがあって眺めていたら、やたらと長い文章を公開しているんです。国家の機能の問題とか、官と民の分担で、何が問題と彼がとらえてああいう形のたたき台を出したかという理解に役立つところがあるので、ちょっとご紹介しておきたいと思います。
昔からドイツの国法学の中に、国家と社会の二分論というのが根強くあります。国家と社会の二分論というときにその前提としているのは何かというと、社会はそれ自体、本質的に私利私欲によって支配されたカオスであり、そのおもむくままに放置するならば必然的に弱肉強食、すなわち強者による弱者の収奪をもたらすことになるので、こういった事態を避け、弱者を救済するためには、それ自体を本来中立・公正にして、理性を代表する存在であるところの国家の力によって社会の無秩序が抑制されなければならないという基本的な発想です。
この話をいまの日本にスライドさせて考えてみると、国家と社会の二分論に立つ伝統的な国家論に基づくと、民は何をするかわからない。民に任せたらどうなるかわからないから国家によって統制するんだというのが、伝統的な国家論なんですが、藤田さんは、「社会に超越し、その存在自体を自己目的とする国家の抽象的な観念からいったん離れて、自由、かつ自立的な社会のため、その必要に応じて形成される政府機構、ガバメントの具体像を探ることが問題になる」というんです。ですから、彼自身はすでに伝統的な国家論から離れて、国家と社会の二分論から離れて、いわば国家と社会の融合というか、相対化の中での民のあり方を探る立場に立っているということなんです。したがって、エージェンシー化や民間化は、こういった国家論からすれば、当然、ひとつの帰結ということになります。
今回の行革問題に関してはまたつぎのようなとらえ方をしているんです。「行革の推進の名の下で重要な問題」ということで、「1.経費節減、財政赤字の解消、2.行政の効率化(縦割り行政による弊害の除去)、3.国の介入の削減、市場原理の尊重、経済社会活動の活性化、4.行政過程の透明化、密室性の排除、5.官僚の腐敗防止等々…」と挙げています。いずれも言葉だけをとるとそうかと思うわけですが、彼にとっては、省庁再編の問題は、行政組織のスリム化とか、縦割り行政による弊害の除去だとか、あるいは既存の行政組織に生じた積年の病弊を取り除く、長年たまったコケを大掃除するということになります。こういう感覚でいきますと、今回の省庁再編は、国家論を背景にした大きな挑戦ということに注意しなければなりません。
盛んに強調される行政の効率に関してですが、たんなる経営的な効率、市場的な効率だけではなくて、人権とか、憲法的な価値を前提とした効率性といったものが当然のごとく求められるのであって、その中身をしっかりと個別的に示していかなければいけない時期だろうと思っております。そういう点で、地方公共団体などで規模の効率性とよく言われるんですが、たとえば人口10万の自治体と1万の自治体を比べれば、それは10万の自治体のほうが効率的なんです。ところが単純にこれをそのまま20万にしたら効率がいいかというと、単なる経営的効率でもよくないという試算も表れています。もちろん自治体民主主義からすれば問題だらけです。省庁再編でいえば、大くくりにやれば経済的効率性の点においてもいいのかどうかは、これもきちんと計算してみる必要もあるだろうし、それに終始しない実体的効率性の提示というのも必要だと思います。
全気象
イギリス型のエージェンシー化が、必ずしも参考にするほど優れたものではないということが何となくわかってきました。いま、新聞記事とか、ニュースとかでも、何かわからないけどとにかくエージェンシー化するんだということになっていますけれども、デメリットというものも感じるわけで、今回のお話を聞いても、それではイギリスのようなものを目指してもしようがないんじゃないかと感じるわけです。実態としてはデメリットもあるんだということがわかったけど、それは国民全体にわからなければいけないことだと思うんですが、そういった動き、デメリットもあるんだということを知らせる動きが全く感じられないというのはどういう事情なのか、気になるんですけれども。
榊原
端的にいって、イギリスのエージェンシーを知る人間が少ないからではないでしょうか。
エージェンシーの問題になってくると、民営化と異なって経済学者とかはあまり関わってきませんで、行政学とか行政法の学者だけで、しかもそのごく一部の人たち研究しているだけに過ぎません。そして、その人たちが、これは意図的か、意図的でないのかわからないところがあるんですが、現実の運用に十分目を向けていないと思うんです。また、日本の民営化のときにもマスコミによって、一面的な評価だけが流れたんですけれども、それと同じことが、今度は中身すらわからないにもかかわらず、エージェンシーしかないという方向で進んでいるわけです。組織をどうするかについては、何が問題であってどう改善するか検討が必要であるにもかかわらず、エージェンシーという言葉さえ出れば問題が解決するかのように言ってしまう。この点では、マスコミの責任も大きいと思います。
全労働
いま政府が進めようとしている行革、省庁再編のねらいというのは先ほど来パネラーの先生方が報告をされたとおりだと、私たちも思っています。とりわけ労働行政に関わって言えば、省庁再編を柱とする行革、地方分権、それから規制緩和の名による労働諸法制の改悪、こうしたものがさらに一体となって攻撃がかけられているんだろうと思っています。その目指す方向というのは全く同じ方向を向いて攻撃をかけてきていると思っています。国から地方へ、官から民へ、それから労働分野の規制緩和の具体化を通して、行政システムの反国民的なリストラだというふうにも私たちは考えているところです。行政機構のハード面と諸法制、ソフト面からの両方からの攻撃だとも思っています。そのことによって5300万労働者の生活や権利、私たち行政で働くものの身分、雇用も脅かされていると思っています。
先ほど来、エージェンシーの話がありました。日本の行政効率が悪いからエージェンシーとか、民間手法の導入だとかということが言われていますが、私たちも国公の調査団の一員としてイギリス、ドイツを訪問しましたけれども、職安行政でいえば、イギリスは日本の職安の職員1万5000名の3倍以上の職員がいて、労働力人口は日本の2分の1以下という状況です。その中で、日本の職員は一人当たり職消化はイギリスの職員の一人当たりの2倍以上している、いかに効率的に現在の行政を進めているかが、それを見ても明らかではないかなと思っています。いま言われたような効率性を追求をするという観点からすれば、エージェンシー化の必要はないのではないかとも思っています。
いま言われている独立行政法人、エージェンシーが行政を義務づける法律からも一定自由となるならば、それは法律主義の精神そのものが損なわれるのではないかというふうにも思っているところです。
私たちの見解の一環を紹介させていただきましたが、きょう、4時から労働省の記者クラブで「行革、省庁再編、エージェンシー化などでどうなる労働行政」ということで記者発表をいま現在している最中だと思います。また、5時からは労働専門紙誌の記者を集めて記者発表をするという予定になっています。私たちは、いま進められている行革の危険性、欺瞞性を広く明らかにしていきたいと思っています。そのことによって行政の後退を許さずに、これは労働行政のみならず、行政の拡充・強化こそが必要と、そういう世論を攻勢的につくっていく。そういうことの運動の一環を担いたいとも思っています。
報告でたいへん恐縮ですけれども、楽しくかつ大胆に、みんなが行革反対という確信犯になって運動を進めていきたい、そのことを報告させていただいて、討論ということにさせていただきます。
国公労連書記長・西田祥文
このシンポジウムの目的は「中央省庁再編の実像と全貌を明らかにする」、こういうことを最初に申しました。ほぼその目的に沿ったのではないか、たとえば行政改革会議が素人集団で非常にいい加減なことをやっているとか、あるいはエージェンシーのお手本としているイギリスが、一周遅れのこれまたたいへんいい加減な実態である、こういう内容が浮き彫りにされました。そして、彼らが目指す行政改革の行き着く先が大くくりの政府、大くくりの省庁、こういうような結論が先にあって、そこに邁進している、ここには理念も哲学も見えない。このこともわかりました。それからその接近、アプローチの仕方も乱暴である、三人の先生たちのお話を聞きながら、彼らは一体この国をどうする気か、こういう不安も私自身感じたところです。
また、恒川先生も、榊原先生もおっしゃいましたけれども、元に戻すことができないという点ではいま正念場に差しかかっている、こういう発言がありました。行政改革を進める側にとってもやはり正念場ではなかろうかと思うわけです。つまり理念も哲学もない無茶な進め方をやらなければならないのは、彼ら自身そういう場面に追い込まれている、そういう場面とは、彼ら自身が21世紀にどう生き残っていくか、生き残りそのものがかかっているのではないかと思うわけです。
フロア発言にもありましたように、そのことがすでに国民が理解しているわけではなくて、むしろ、逆に一定の幻想みたいなものがあって、いまは「それいけ、やれいけ」という応援をしている人たちも少なからずあります。したがって、国公労連は国民をどちらがとるか、これが勝敗の分かれ目という視点でこの一年間運動をし、これからも運動を提起するつもりです。
国公労連中央執行副委員長・安部昭雄
7月3日に、行政改革会議に国公労連としての省庁再編問題についての申し入れを行いました。その段階で行革会議の事務局の担当参事官は、「いまのところ制度設計などについてはいろいろ意見があって、まさにこれからだ。8月に骨格を決めて、お尻は11月に決まっているのでそこに向けていろいろお話も伺いながら進めていく」というふうに言いながら、「今後、骨格が決まっても各省ヒアリングは行うつもりはない」と言いました。先生方のお話にもありましたとおり、いまの行政、日本の民主的な憲法の下で基本的人権をどう担保するのかという趣旨からそれぞれの行政分野が担ってきているわけですが、その方向が50年間、行政分野で到達している点がないがしろにされようとしているときに、一方的な行革会議の方向について省庁の改めての意見も聞かないという態度を、国公労働者として見逃すわけにはいきませんし、当然のこととして、行政に責任を持つ各省当局がこれを黙って見逃していいのかという問題が出てくると思います。
8月から11月にかけて時間はあまりありませんけれども、私どもが提起している方向での国公労働者労働組合としての取り組みをさらに強化していく必要があるんだと思います。
今後の運動を進める上で、先般の東京都議選での結果というのは、私どもの運動方向を指し示しているのではないかと私は思います。都議選ではマスコミの「争点がない」という報道と、各政党の争点隠しの状況の下で進みました。日本共産党が「都民いじめの財政再建を許すのか、都民の暮らし・福祉優先の都政実現化」を争点として押し出して、その結果として都民の皆さんの支持を得て大躍進をしました。いま、「橋本行革」の問題点、国民生活に対する大きな影響をどれだけ知らしめることができるのか、国公労働者を中心とする公務大産別の行財政改革に対するたたかう方向をどれだけ理解してもらえるのか、そのことによって橋本内閣をどれだけ大きな国民的な包囲網で孤立させることができるか、まさにこのたたかいはそこに勝負の分かれ目があるんだと思います。
「橋本行財政改革との対決」というのは、私ども公務員労働者労働組合の使命と役割が問われますし、組織の存亡がかかっていると言っても過言ではありません。国公労連は憲法遵守、国民本位の民主的行政確立と、仲間たちの職場雇用、労働条件、暮らしを守るために、臨戦態勢を確立して行革闘争に全面的に勝利するために全力で奮闘する決意を申し上げて、たいへん雑駁ですが、シンポジウムの閉会のあいさつとさせていただきます。たいへんありがとうございました。