労働組合が地球上に初めて誕生
労働組合が誕生したのは、産業革命下の18世紀末のイギリスといわれています。工場制機械工業が発達し、大勢の労働者が一ヵ所で働き、多くの商品をうみ出しました。しかし、それらの富は、労働者を豊かにすることなく、経営者のものとなり、労働者は低賃金、無権利で、長時間労働により酷使され、ケガや病気、貧困に苦しんでいました。
パブで始まった共済活動から
そうしたなかで、仕事帰りの居酒屋(パブ)などで知り合ったものどうしが、ケガや病気などの相互扶助を目的に自主的な共済活動を始めました。このように労働者の連帯と団結が生まれ、首切りや賃下げ、長時間労働などの無権利状態を解決するために、ストライキなどの戦術が自然に発生しました。しかし、一時的なたたかいも、圧倒的な力を持ち、政府によって支援されている経営者と対抗するには無力であり、恒常的な団結の組織が必要でした。
8時間労働制の要求からメーデーに
こうして、地球上に初めて労働組合が誕生したのですが、その道のりは平坦なものではなく、政府による弾圧、団結禁止法の制定など、さまざまなハードルがありました。それでも、イギリスでは19世紀の前半に団結禁止法が撤廃され、20世紀前半までに労働法制が確立していきました。
世界的に定着しているメーデーも、8時間労働制を要求して、アメリカから世界の労働者に連帯のたたかいが呼びかけられ、ひろがったものです。
パブ 単なる居酒屋ではなく、居住地の寄り合い所(パブリックハウス)という性格の強いもので、マスターが書記局の役割を果たしたり、求人・求職の役割も果たしたといわれています。
日本では19世紀に労働組合が登場
日本では、明治政府によって「富国強兵」政策がとられ、上からの資本主義経済への移行が進められました。政府は官営の工場などを興し、富裕な大商人などに払い下げるやり方で、近代産業資本を育成しました。それらの工場には、高い税金で苦しむ農民の子女、没落士族、職人層などが賃金労働者として働くようになりました。
女性のストライキが“日本初”
そして、日清・日露というアジア大陸への侵略戦争による軍需景気で「産業革命」が進展し、自由民権運動、山梨県甲府の製糸工場のストライキ(日本初、女工による)、労働組合期成会の設立などを経て、1897年に結成された「鉄工組合」が日本で最初の労働組合といわれています。
その後、第1次世界大戦、軍需景気と財閥の形成、日本最初のメーデー(1920年)、製鉄・造船工業における大ストライキ、世界大恐慌などを経て、戦時体制づくりが進められ、第2次世界大戦へと歴史が刻まれました。
恐慌下で裁判官もたたかいに
戦前の国家公務員は、絶対主義天皇制のもとで、高等官(勅任官・奏任官)、判任官の「官吏群」とそれ以外の「雇・傭人」という厳しい身分差別、待遇差別がありました。下級官吏の生活は、経済的にはあきらかに労働者化し、熟練労働者をかなり下回る水準にあったので、生活改善の要求は切実でした。激しい物価上昇や恐慌のなかで、賃金引き上げ、減俸反対などに判事、検事も立ち上がり、「下級官吏」も労働組合運動に参加してたたかいました。
高等官 勅任官で天皇が自ら任命した「親任官」(大臣級)と、それ以外の勅命(天皇の命令)で任命された「勅任官」(局長級)、内閣総理大臣が天皇に“推薦”して任命された「奏任官」(課長級)の総称です。その下に、各省大臣等が有資格者のなかから任命した「判任官」が置かれました。これらの分類は、天皇との距離にもとづくものと理解されていました。
戦後の混乱期に労働運動が高揚
第2次世界大戦が終わって日本で最初にできた法律は、占領軍の意向をうけた労働組合法でした(1945年12月)。労働組合が、つぎつぎに結成され、働く者のパワーは全開しました。戦地から生きて帰った人をはじめとする労働者は、戦時体制の重圧から解放され、戦後経済の混乱下で、生活を守り立て直す運動の先頭に立ちました。
企業別組合の形態が一般的に
この時期、交通・通信網の不備、極端な食糧・物資不足、インフレのもとで敏速に結成する必要から、企業・事業所単位に労働組合が組織され、「企業別組合」といわれる形態が一般的になりました。
ゼネストかまえて賃金倍増!
このような情勢のもとで、官公庁労働者も奮闘し、たたかいの前進に貢献しました。1947年の「2・1ゼネスト」は、アメリカ占領軍の命令で前夜に中止になりましたが、官公庁労働組合もこれに参加を表明し、賃金はほぼ倍加しました。
労働運動の高揚に恐れをなした占領軍は最高司令官マッカーサーが書簡を出し、これをうけた政府は政令201号により、公務員労働者の団体交渉権に制約を加え、一方的にストライキ権を剥奪しました。
1949年に中華人民共和国が誕生し、アメリカは占領政策を完全に転換して、日本の労働運動を敵視し、弾圧しました。この時期に官民を問わず吹き荒れたレッドパージにより労働組合運動も大きな打撃を受けました。
人事院勧告制度をめぐる攻防
弾圧をはねのけて力を回復した国公労働者は、1956年に「国公共闘会議」を結成しました。労働基本権制約の「代償措置」としてできた人事院勧告制度では、国公法第28条により官民較差が5%以上ある時は勧告しなければならないのに、人事院は民間との賃金格差に目をつぶり、54年から59年まで勧告をださない事態がつづきました。
統一ストで勧告出される
60年安保闘争の国民的な盛り上がりのなかで統一賃金闘争が発展し、7年ぶりに勧告を出させました。しかし、政府は、「5月実施」と明記された勧告の実施時期を値切り、10月実施の賃上げ実現となりました。この時期、国家公務員の秋季年末闘争は、完全実施が大きな課題になりました。
その後、「60年安保」で危機感をつのらせた支配層や当局による組織破壊攻撃、分裂攻撃が行われました。しかし国公労働者は、組合員の要求を基礎に着実な闘争を発展させて組織的危機を乗り切り、69年11月には9年ぶりに統一ストライキ闘争を成功させて「人勧完全実施」を確約させました。
70年安保闘争で民間5ケタの賃上げ
70年の安保改定期を前に、国民的な公害反対運動、革新自治体のひろがり、ベトナム侵略戦争反対運動などが大きく広がりました。
この年、公務員の賃金闘争は、大きな成果をあげました。1万円以上の賃上げ要求に対して、民間相場が5ケタを作り出したこともあり、平均12.67%、8022円の引き上げ、住宅手当新設などの勧告を引き出しました。
安保改定期 第2次世界大戦で米・英・仏・ソなどの連合国に敗れた日本は、米が事実上の単独占領をしているもとで、1951年9月8日サンフランシスコで平和条約を締結しました。同時に日米安全保障条約を、密室で結んだといわれています。この安保条約が、1960年の改定を経て、10年ごとに当事国の一方的通告で廃棄できる枠組みができました。
史上最高29%・3万円の賃上げも
1973年の「年金スト」は、物価スライド制を獲得し「国民春闘」への発展方向を示しました。そして、第1次オイルショックによる狂乱物価・物隠しは国民的な怒りを呼び起こし、74年春闘の史上最高の賃上げ獲得につながりました。公務員賃金闘争も、暫定勧告を引き出し、最終的に29.64%:3万1144円の大幅賃上げを実現しました。
国公共闘から「国公労連」に発展
こうした盛り上がりのなかで、国公共闘を組織的に発展させ「国公労連」が75年に結成されました。
このような労働組合運動の前進に危機感をもった日経連は、74年に「大幅賃上げ行方研究委員会」(のちの「労働問題研究委員会」、経団連との統合後は「経営労働政策委員会」)を発足させるとともに、労使協調主義の潮流を進める右翼的な労組幹部と呼応して、賃金の抑え込みをはかりました。その構図は今日まで続いています。
労使協調の管理春闘下に
75年春闘では賃上げ率13.1%、76年が8.8%というように、以降1ケタ台に抑さえ込まれました。こうして、「管理春闘」といわれる事態が続くようになってしまいました。
78年には、同盟が反共・労使協調のナショナルセンターづくりの方向を打ち出し、総評は80年から賃金要求自粛の方向に傾斜していきました。
日本経団連 日本経済団体連合会の略称で、2002年5月に、財界の「労務対策部」といわれた日経連が、財界の総本山といわれる経済団体連合会(経団連)と統合されたもの。70年代前半の労働組合運動の発展に危機感をもった日経連は「大幅賃上げの行方研究委員会」を発足させ、毎年、財界の「春闘対策(労問研報告)」を作り1月の臨時総会で決定していました。
総評の解散、労働戦線の再編へ
81年春闘は、3月に発足した第二臨調が公務員の定員、給与、退職金抑制などの検討に着手し、政府・財界による公務員攻撃が本格化するなかでたたかわれました。結果は、要求自粛と「ストなし春闘」となり、公務員給与は“政治決着”により、1970年の完全実施以来11年ぶりに「値切り」が強行されました。退職手当削減、地方公務員の定年制などの法案も成立しました。
人勧「凍結」に、俸給表改ざんまで
82年には4.58%の賃上げをおもな内容とする人事院勧告を、政府が財政非常事態宣言を理由に「完全凍結」しました。83年には、勧告を値切り、政府が俸給表を改ざんするという暴挙に出て、人事院総裁も政府を批判しました。
このような状況のもと、国公労連は、83年5月の全国活動者会議をへて、国民との共闘を重視する「国公大運動」を提起しました。臨調・行革路線のもとで、低額勧告・値切りが続きましたが、86年の勧告を8年ぶりに完全実施させることができました。
たたかう全労連が発足
89年は、ベルリンの壁崩壊、ルーマニアの政権崩壊など、東欧諸国を中心に世界情勢の劇的な変動がありました。また、日本の労働戦線も大再編が行われた、まさに歴史の転換点といえる年になりました。11月21日には、二つのナショナルセンターが結成されました。総評が解散し、旧同盟・中立労連などによる「連合」と、統一労組懇のたたかう伝統を引き継いだ「全労連」が発足し、国公労連は全労連に加盟しました。
統一労組懇 総評、同盟などナショナルセンターの特定政党支持の誤りを正し、政党と労働組合の正しい関係確立のため、1966年12月以来、交流・懇談をつづけていた労働組合38単産が、69年「全民主勢力の統一のためのアピール」を発表。70年3月に統一促進懇をつくり、さらに74年12月、統一戦線促進労働組合懇談会(略称:統一労組懇)へと発展しました。
第二臨調 1981年から83年にかけて設置された「第二次臨時行政調査会」のことです。アメリカのレーガン戦略に全面的に同調して日本の役割分担を強化するために、日本の政治・経済の反動化を目指そうとするものでした。それは、憲法が保障する国民の生存権、戦争放棄、地方自治、行政の国民全体への奉仕などの「平和的民主的原則」をくつがえそうとするものでした。
転機むかえた労働組合運動
90年代もソ連邦の崩壊(91年12月)など情勢の激動が続き、日本経済はバブルの崩壊後、長期不況に入りました。財界は、「21世紀戦略」により、行革・規制緩和、経済構造改革を2本の柱として、大企業に都合のよい経済や財政に変える動きを強めました。95年には日経連が「新時代の『日本的経営』」により、終身雇用、年功賃金という日本型労使関係の見直しを打ち出しました。
これに対し国公労連は、財界・大企業本位の行財政を、「国民本位の行財政」に転換する立場で、96年から3年有余のたたかいを展開しました。この間、賃金闘争では、全労連を軸にした国民春闘共闘が、一貫して率・額ともに連合を上回る賃上げ相場を築き、ねばりづよくたたかいをすすめました。
ルールなき資本主義に抗して
20世紀末を迎えるなかで、「ルールなき資本主義」といわれるほどのなりふり構わないリストラ「合理化」が強まり、賃下げ・大量失業などが日本経済をさらに悪化させました。また、雇用流動化政策もすすみ、非常勤、パート・アルバイトなどの不安定雇用労働者が大量に生み出されています。
このような厳しい実態をうけて、2大ナショナルセンター間に、一致する要求にもとづく部分的な共同が行われるなどの変化もうまれています。
「国民とともに」逆風に立ち向かう
政治も大激動期を迎えました。1993年、自民党の単独政権に終止符が打たれ、細川連立政権、村山連立政権の誕生と続きましたが、基本的には自民党政治の枠内で、国民の願いとは逆行する悪法が次々に成立したように「オール与党化」が進行している一面もありました。
国公労連は、転機を迎えた労働組合運動を直視し、92年1月に続く99年12月の全国活動者会議で「いま国民のなかへ、国民とともに」のスローガンを確認しました。この基本的立場で、賃金闘争を軸に、国民的な支持をかちとる取り組みを強めました。
21世紀初頭の目標と展望をかかげて
1府12省庁の新体制発足で始まった21世紀。日本経済は行き詰まりを打開できず、労働者・国民の生活はさらに悪化しました。そういうなかで登場した小泉政権は、「自民党を壊す」「構造改革を断行する」などと国民をあざむき、支持をかすめ取ってきました。しかし、失業率は「史上最悪」の記録を更新しつづけ、不安定労働者の増加と「雇用破壊」が進行し、成果主義賃金の広がりなど「賃金破壊」もさらに進んでいます。
全労連は、国民の誰もが仕事と暮らしを保障される社会づくりをめざす『21世紀初頭の目標と展望』を提言し、「労働組合運動の壮大な共同と統一」を呼びかけています。
急速な「戦争する国」づくりと日本国憲法
新自由主義・構造改革路線を進める小泉政治は、日本の軍事大国化を強引に進め、社会保障を解体して貧富の差が急速に拡大するなど、国民との矛盾をますます深めてきました。あわせて、平和憲法を改悪する動きも急ピッチで進められており、従来の「押しつけ憲法論」に加え、プライバシー権、環境権など新しい装いで国民をあざむき、本命である9条改憲へと一気に反動化を進める構えです。
公務員制度「改革」とたたかい、前進築く
このような情勢のなかで「公務員制度改革」が打ち出され、あたかも政治の腐敗を正し、国民生活の向上に寄与するかのような宣伝が強められています。これに対し、国公労連は、「国民いじめの政治に奉仕する公務員づくり反対」「特権的キャリア制度の廃止と政・官・財ゆ着の根絶」「公共サービスの商品化反対」など、世論に訴える取り組みを強めています。
小泉「構造改革」を引き継いで2006年9月に安倍政権が発足し、「任期中の憲法改正」を公然と揚げるその危険な本質が明らかとなるなかで、私たち公務労働者のたたかいもその真価が問われています。
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