労働組合が地球上に初めて誕生
労働組合が誕生したのは、産業革命下の18世紀末のイギリスといわれています。工場制機械工業が発達し、大勢の労働者が一ヵ所で働き、多くの商品をうみ出しました。しかし、それらの生産物と富は、労働者を豊かにすることなく、経営者のものとなり、労働者は低賃金、無権利で、長時間労働により酷使され、ケガや病気、貧困に苦しんでいました。
共済活動から始まり、ストライキを発見
そうしたなかで、イギリスの労働者は仕事帰りの居酒屋(パブ)などで知り合った者同士が、ケガや病気などの相互扶助を目的に自主的な共済活動を始めました。このようななかで労働者の連帯と団結が生まれ、首切りや賃下げ、長時間労働などの無権利状態を解決するために、ストライキなどの戦術が自然に発生しました。ストライキをすることによって労働者は、自分たちが職場や社会を動かす大きな力をもっていることを知ったのでした。
しかし、一時的なたたかいでは、圧倒的な力を持ち、政府によって支援されている経営者と対抗するには無力であり、恒常的な団結の組織、すなわち労働組合が必要でした。
8時間労働制の要求からメーデーに
こうして、地球上に初めて労働組合が誕生したのですが、その道のりは平坦なものではなく、政府による弾圧、団結禁止法の制定など、さまざまなハードルがありました。それでも労働者のたたかいは止むことなく、イギリスでは19世紀の前半に団結禁止法が撤廃され、20世紀前半までに労働法制が確立していきました。また、1886年に8時間労働制を要求して、ストライキで立ち上がったアメリカの労働者に連帯するため、世界の労働者に連帯のたたかいが呼びかけられました。これがメーデーの起源ですが、第1回国際メーデーは1890年に行われました。
パブ 単なる居酒屋ではなく、居住地の寄り合い所(パブリックハウス)という性格の強いもので、マスターが書記局の役割を果たしたり、求人・求職の役割も果たしたといわれています。ストライキになればパブが闘争本部になりました。
◆近代イギリスの労働法制略年表
1799年 「団結禁止法」制定(これ以前には地域・産業限定の同法が多数)
1824年 「団結禁止法」撤廃(団交権・争議権は制限)
1871年 「労働組合法」成立(同時に刑法を修正)
1875年 「争議権」承認(刑事免責も)
1906年 「労働争議法」(民事免責、ピケット権、同情スト権認める)
1913年 「労働組合法」制定(政治活動認める)
日本では19世紀に労働組合が登場
日本では、明治政府によって「富国強兵」政策がとられ、上からの資本主義経済への移行が進められました。政府は官営の工場などを興し、富裕な大商人などに払い下げるやり方で、近代産業資本を育成しました。それらの工場では、高い税金で苦しむ農民の子女、没落士族、職人層などが賃金労働者として働くようになりました。
女性のストライキが“日本初”
そして、日清・日露というアジア大陸への侵略戦争による軍需景気で「産業革命」が進展し、自由民権運動、1885年の山梨県甲府の製糸工場ストライキ(日本初、女工による)、労働組合期成会の設立などを経て、1897年に結成された「鉄工組合」が日本で最初の労働組合といわれています。
その後、第1次世界大戦、軍需景気と財閥の形成、日本最初のメーデー(1920年)、製鉄や造船工業における大ストライキ、世界大恐慌などを経て、戦時体制づくりが進められ、1940年に全ての労働組合は解散させられ、第2次世界大戦へと歴史が刻まれました。
恐慌下で官吏も増給のたたかいに
戦前の国家公務員は、絶対主義天皇制のもとで、高等官(勅任官・奏任官)、判任官の「官吏群」とそれ以外の「雇・傭人」というきびしい身分差別、待遇差別がありました。下級官吏の生活は、経済的にはあきらかに労働者化し、熟練労働者をかなり下回る水準にあったので、生活改善の要求は切実でした。激しい物価上昇や恐慌のなかで、賃金引き上げ、減俸反対などに判事、検事も立ち上がり、「下級官吏」も増給運動に参加してたたかいました。
高等官 勅任官で天皇が自ら任命した「親任官」(大臣級)と、それ以外の勅命(天皇の命令)で任命された「勅任官」(局長級)、内閣総理大臣が天皇に“推薦”して任命された「奏任官」(課長級)の総称です。その下に、各省大臣等が有資格者のなかから任命した「判任官」が置かれました。これらの分類は、天皇との距離にもとづくものと理解されていました。
◆戦前の日本と労働組合の登場
1868年 明治維新(封建制?資本主義へ)
1885年 甲府の製糸女子労働者による日本最初のストライキ
1897年 労働組合期成会設立/鉄工組合結成(日本初の労働組合)
1889年 明治憲法発布(絶対主義天皇制)
1894年 日清戦争(?95年)
1900年 治安警察法制定(「労働組合死刑法」?45年)
1904年 日露戦争(?05年)
1914年 第1次世界大戦(?18年)
1917年 ロシア革命/日本のシベリア出兵
1919年 ILO(国際労働機関)設立
1925年 治安維持法制定
1929年 世界大恐慌(?33年)/浜口内閣、官吏1割減俸案:撤回
1931年 満州事変/官吏2割減俸案(「本俸100円以上」に限定させる)
1937年 日中戦争はじまる
1938年 国家総動員法
1940年 大政翼賛会/産業報国会(すべての労働組合解散)
1941年 第2次世界大戦(?45年)
戦後の労働組合運動高揚期
第2次世界大戦が終わって日本で最初にできた法律は、占領軍の意向をうけた労働組合法(1945年12月)でした。戦地から生きて帰った人をはじめとする労働者は、戦時体制の重圧から解放され、労働組合をつぎつぎに結成。戦後経済の混乱のもとで、生活を守り立て直す運動の先頭に立ちました。
敗戦から立ち上がる国公労働者
戦後、国公労働者もいちはやく労働組合を結成し、官庁民主化と食糧危機突破に立ち上がりました。「1947年末までに結成されたおもな組合は、大蔵、会計検査院、農林、労働、厚生、財務(国税)、気象、商工(通産)、医療、運輸、文部、総理府恩給、外務、司法、土木(建設)、税関、法務など」(『国公労働運動の五十年史』より)でした。1946年9月には、国公労連のルーツとなる非現業国家公務員の全国官庁職員労働組合協議会(全官労)が結成(20組合9万2000人)されました。
「2・1ゼネスト」の高揚と官公労働運動への弾圧
46年11月に、国鉄、郵便・電電、教職員、自治体、全官労などの官公労の組合は全官公庁共闘(153万人)を結成し、1947年の「2・1ゼネスト」を準備しました。民間労組も相次いで「ゼネスト」参加を表明し、400万人のゼネスト必至の状況となるなか、GHQ(連合国軍総司令部)は前日に禁止命令を発し、ゼネストを中止させました。しかし、このたたかいによって公務員の賃金は倍になり国公の各組合は各省当局との労働協約の締結を促進しました。
官公労働運動の高揚に恐れをなしたアメリカ占領軍は1948年7月、最高司令官のマッカーサーが書簡を出し、これを受けた政府は政令201号により、公務員労働者の団体交渉権を制約するとともに、争議権を一方的に剥奪。同年11月には争議権と協約締結権の剥奪、政治活動を全面的に禁止する国公法改悪を強行しました。この後、官民を問わず吹き荒れたレッドパージにより労働運動は大きな打撃を受けました。
<1945年>
8/15 第2次世界大戦終わる
10/30 大蔵省での組合結成準備会(?47年頃各省庁での組合結成が集中)
12/22 労働組合法公布(46.3.1施行)
<1946年>
5/ 1 復活第17回メーデー
9/26 全国官庁職員労働組合協議会(全官労)結成(国公労連のルーツ)
11/ 3 日本国憲法公布
<1947年>
1/31 占領軍が2・1ゼネスト禁止を命令
4/ 7 労働基準法公布(9.1施行)
5/ 3 日本国憲法施行
10/21 国家公務員法公布(48.7.1施行)
11/ 1 臨時人事委員会発足
<1948年>
6/22 マッカーサーGHQ司令官、芦田首相に公務員の争議禁止を含む国公法改正の書簡
7/31 政令201号で官公労働者のスト権剥奪、団交権制限
11/30 改悪国公法成立(12.3公布、施行)
12/ 8 人事院発足
12/10 人事院初の給与勧告(6307円ベース、完全実施)
<1949年>
4/30 行政整理26万7300人を閣議決定
5/31 行政機関職員定員法成立
<1950年>
9/ 1 レッドパージの方針を閣議決定
<1951年>
1/25 全官労、日本官庁労働組合協議会(日官労)と改称
6/21 官庁労働組合協議会(日官労を解散して官労)を結成
人事院勧告制度、ILO87号条約批准をめぐる攻防
弾圧をはねのけて力を回復した国公労働者は、1956年に「国公共闘会議」を結成しました。労働基本権制約の「代償措置」としてできた人事院勧告制度のもと、国公法第28条により官民較差が5%以上ある時は勧告しなければならないのに、人事院は民間との賃金格差に目をつぶり、54年から59年まで勧告をださない事態がつづきました。
統一ストで勧告出させる
1960年の安保闘争の国民的な盛り上がりのなかで統一賃金闘争が発展し、7年ぶりに勧告を出させました。しかし、政府は、「5月実施」と明記された勧告の実施時期を値切り、賃上げは10月実施となりました。
その後、「60年安保」で危機感をつのらせた支配層や当局は、組織破壊攻撃、分裂攻撃を行いました。しかし国公労働者は、組合員の要求を基礎に着実な闘争を発展させて組織的危機を乗り切り、69年11月には9年ぶりに統一ストライキ闘争を成功させて「人勧完全実施」を確約させました。
70年の安保改定期を前に、国民的な公害反対運動や革新自治体のひろがりとともに、ベトナム侵略戦争反対運動などが大きく広がり、この時期、労働組合の賃金闘争も大きく前進しました。
ILO87号条約批准と国公法改悪
国公共闘などの官公労働組合は、労働基本権回復をめざして奮闘しました。しかし、政府は、ILO87号条約(結社の自由及び団結権の保護)批准に便乗して、条約の趣旨とは逆に団結権を侵害し、権力に従順な公務員づくりを企図する国公法改悪に着手しました。国公労働者は国公法改悪案を5度にわたって廃案に追い込みましたが、65年に成立させられました。
国公労働者はこのたたかいのなかで、みずからの権利状況を国際的視野でとらえることの必要性を学びました。
<1953年>
6/ 8 官労と官公労が組織統一(官労解散)し、官公労働戦線の統一を実現
7/28 官公労国公部会発足
<1956年>
2/ 7 官公労国公部会を国公共闘に改組
<1958年>
8/11 官公労解散大会
11/ 5 警職法反対統一スト(全農林警職法事件)
<1959年>
9/19 総評 国公・地公共闘会議を設置
<1960年>
2/ 2 国公共闘青年婦人協結成
2/29 国公・地公共闘会議を公務員共闘と改組
3/ 3 政府が給与担当大臣を設置
6/ 4 統一ストライキ(安保仙台6・4事件、6.15、22統一ストライキ)
11/12 国公共闘、団結権問題でILO提訴
<1965年>
5/17 ILO87号条約批准と改悪国公法成立
8/31 ILOドライヤー委員会報告書発表
<1966年>
10/26 全逓中郵事件で最高裁無罪判決
<1969年>
4/ 2 安保仙台6・4事件で最高裁上告棄却するもスト禁止違憲の疑い
11/13 統一ストライキ(29分)
<1971年>
7/15 統一ストライキ(29分)
<1972年>
8/15 人事院勧告初の4月実施(10.68%、8097円引き上げ)
史上最高29%・3万円の賃上げも
1973年の「年金スト」は、物価スライド制を獲得するなど「国民春闘」への発展方向を示しました。そして、第1次オイルショックによる狂乱物価・物隠しが国民的な怒りを呼び起こし、74年春闘の史上最高の賃上げ獲得につながりました。公務員賃金闘争においても、暫定勧告を引き出し、最終的に29.64%、3万1144円の大幅賃上げを実現しました。
国公共闘から「国公労連」に発展
こうした盛り上がりのなかで、国公共闘を組織的に発展させ「国公労連」が75年に結成されました。
このような労働組合運動の前進に危機感をもった日経連は、74年に「大幅賃上げ行方研究委員会」(のちの「労働問題研究委員会」、経団連との統合後は「経営労働政策委員会」)を発足させるとともに、労使協調主義の潮流を進める右翼的な労組幹部と呼応して、賃金の抑え込みをはかりました。その構図は今日も続いています。
労使協調の管理春闘下に
75年春闘では賃上げ率13.1%、76年が8.8%というように、以降1ケタ台の賃上げに抑さえ込まれました。こうして、「管理春闘」といわれる事態が続くようになってしまいました。
78年には、同盟が反共・労使協調のナショナルセンターづくりの方向を打ち出し、総評は80年から賃金要求自粛の方向に傾斜していきました。
日本経団連 日本経済団体連合会の略称で、2002年5月に、財界の「労務対策部」といわれた日経連と、財界の総本山といわれる経済団体連合会(経団連)が統合されたもの。70年代前半の労働組合運動の発展に危機感をもった日経連は「大幅賃上げの行方研究委員会」を発足させ、毎年、財界の「春闘対策(労問研報告)」を作り1月の臨時総会で決定していました。
<1973年>
4/23 全農林警職法事件、最高裁1票差で逆転有罪判決
8/ 9 人事院勧告(15.39%、1万4493円引上げ)
12/14 期末手当支給の特例法成立(17日公布・施行)
<1974年>
4/ 4 人事院勧告(期末手当0.3月分増額)
5/30 人事院勧告(給与の暫定措置・本俸の10%増)
7/26 人事院勧告(暫定を含め29.64%、3万1144円引上げ)
<1975年>
4/30 ベトナム戦争終結(アメリカ敗退)
8/13 人事院勧告(10.85%、1万5177円引上げ)
10/ 1 国公共闘会議を連合体化し、国公労連を結成
11/26 公労協スト権スト8日間
<1976年>
7/27 田中角栄前首相ロッキード事件で逮捕
8/10 人事院勧告(6.94%、1万1014円引上げ)
<1977年>
5/ 4 全逓名古屋中郵事件で最高裁逆転有罪判決
8/ 9 人事院勧告(6.92%、1万2005円引上げ)
<1978年>
8/11 人事院勧告(3.84%、7269円引上げ、12月期末手当0.1月カット)
<1979年>
2/20 国公労連、国公労協らで全国公結成
8/10 人事院勧告(3.7%、7372円引上げ)
労働戦線の再編、全労連が発足
81年春闘は、3月に発足した第二臨調が公務員の定員、給与、退職金抑制等の検討に着手するなど、政府・財界による公務員攻撃が本格化するなかでたたかわれました。結果は、要求自粛と「ストなし春闘」となり、公務員給与は“政治決着”で、1970年の完全実施以来11年ぶりに「値切り」が強行されました。退職手当削減、地方公務員の定年制などの法案も成立しました。
人勧「凍結」に、俸給表改ざんまで
政府は、82年の人事院勧告(4.58%の賃上げ等)を財政非常事態宣言を理由に「完全凍結」しました。83年には、勧告を値切り、政府が俸給表を改ざんするという暴挙に出て、人事院総裁も政府を批判しました。
このような状況のもと、国公労連は、統一ストライキでたたかうとともに、83年5月の全国活動者会議をへて、国民との共闘を重視する「国公大運動」を提起しました。臨調・行革路線のもとで、低額勧告・値切りが続きましたが、86年には勧告を完全実施させることができました。
たたかうナショナルセンター全労連が発足
89年は、ベルリンの壁崩壊、ルーマニアの政権崩壊など、東欧諸国を中心に世界情勢の劇的な変動がありました。また、日本の労働戦線も大再編が行われるなど、まさに歴史の転換点といえる年になりました。11月21日には、二つのナショナルセンターが結成されました。総評が解散し、旧同盟・中立労連などによる「連合」と、日本労働運動のたたかう伝統を引き継いだ「全労連」が発足し、国公労連は全労連に加盟しました。
第二臨調 1981年から83年まで設置された「第二次臨時行政調査会」のこと。アメリカに同調して日本の役割分担を強化するために、日本の政治・経済の反動化を目指そうとするもの。憲法が保障する国民の生存権、戦争放棄、地方自治、行政の国民全体への奉仕などの「平和的・民主的原則」をくつがえそうとするものでした。
<1981年>
3/14 第2次臨時行政調査会発足
<1982年>
9/20 人勧完全凍結の閣議決定
12/14 右翼再編のための全民労協発足
12/16 統一ストライキ(2時間)
<1983年>
10/ 7 統一ストライキ(29分)
10/21 人勧6.47%を2%に抑制の閣議決定
<1984年>
10/26 統一ストライキ(29分)
12/11 人勧6.44%を3.37%に抑制する閣議決定
12/20 電々公社(現NTT)民営化法成立
<1985年>
4/17 統一ストライキ(29分、交渉拒否に抗議)
11/ 8 人勧7月実施(3カ月値切り)の閣議決定
<1986年>
11/28 国鉄(現JR)分割民営化法成立
<1989年>
11/ 9 ベルリンの壁崩壊
11/13 公務共闘結成
11/20 統一労組懇解散
11/21 全国労働総合総連合(全労連)結成
総評解散、連合結成
<1990年>
1/16 国民春闘共闘委員会結成
<1991年>
12/21 ソ連崩壊
転機むかえた労働組合運動
90年代もソ連邦の崩壊(91年12月)など激動の情勢が続き、日本経済はバブルの崩壊後、長期不況に入りました。財界は、「21世紀戦略」により、行革・規制緩和、経済構造改革を2本の柱として、大企業に都合のよい経済や財政に変える動きを強めました。95年には日経連が、終身雇用、年功賃金という日本型労使関係を見直す「新時代の『日本的経営』」を打ち出しました。
これに対し国公労連は、財界・大企業本位の行財政を、「国民本位の行財政」に転換する立場で、96年から3年有余のたたかいを展開しました。この間、賃金闘争では、全労連を軸にした国民春闘共闘がねばりづよくたたかい、一貫して率・額ともに連合を上回る賃上げ相場を築きました。
ルールなき資本主義に抗して
20世紀末を迎えるなかで、「ルールなき資本主義」といわれるほどの財界・大企業によるなりふり構わないリストラ「合理化」が強まり、賃下げ・大量失業などが日本経済をさらに悪化させました。また、雇用の流動化政策もすすみ、非常勤、パート、派遣などの不安定雇用労働者が大量に生み出されました。
このようなきびしい状況のもとで、全労連と連合の2つのナショナルセンター間に、一致する要求にもとづく部分的な共同が行われるなどの変化もうまれています。
「国民とともに」逆風に立ち向かう
政治も大激動期を迎えました。1993年、自民党の単独政権に終止符が打たれ、非自民の細川連立政権が誕生しましたが、基本的には自民党政治の枠内で、国民の願いとは逆行する悪法が次々に成立したように「オール与党化」が進行している一面もありました。
国公労連は、転機を迎えた労働組合運動を直視し、92年1月に続く99年12月の全国活動者会議で「いま国民のなかへ、国民とともに」のスローガンを確認しました。この基本的立場で、賃金闘争や行政民主化闘争を軸に、国民的な支持をかちとる取り組みを強めました。
<1993年>
1/ 1 欧州連合(EU)発足
8/ 9 細川非自民連立政権発足
<1994年>
3/ 4 小選挙区制法成立
6/29 自民・社会大連立の村山内閣発足
<1995年>
1/17 阪神淡路大震災(死者行方不明 6,400人以上)
3/20 地下鉄サリン事件
5/17 日経連「新時代の『日本的経営』」
<1997年>
4/ 1 消費税3%から5%に
12/ 3 行革会議が1府12省への省庁再編などの最終報告
<1998年>
6/12 中央省庁等改革基本法公布
<1999年>
5/24 日米防衛協力のためのガイドライン関連法成立
8/ 9 日の丸・君が代法成立
<2000年>
1/20 衆参両院に憲法調査会設置
12/ 1 「行革大網」を閣議決定
<2001年>
1/ 6 1府12省庁新体制発足
4/ 1 独立行政法人制度発足
9/11 アメリカで同時多発テロが発生
21世紀を生きる公務労働運動をめざして
1府12省庁や独立行政法人制度の発足など行政機構の新体制で始まった21世紀。この間、働くルールの破壊や「小さな政府」づくりなどの構造改革が強引に進められましたが、大企業中心の自民党政治と国民との矛盾は激化。2008年末の「年越し派遣村」に象徴される雇用の破壊や地域の疲弊を進めた構造改革に反対する国民のエネルギーが、2009年8月の総選挙で自民・公明政権を退場させました。
しかし、国民の期待に反して民主党政権は、米軍普天間基地の県内移設や法人税減税に踏みだし、環太平洋経済連携協定(TPP)参加や消費税増税を打ち出すなど構造改革路線の政治に回帰しています。
国民の安心・安全を確保する国の責任
2011年3月11日に発生した東日本大震災。巨大な地震と津波、原発事故が甚大な被害をもたらしました。同時に、行政の縮小、市町村合併をすすめた「構造改革」が被害を拡大しました。一方、被災者救援と被災地の復旧・復興で果たした国の出先機関と公務員の役割があらためて明らかになりました。
2009年12月末の社会保険庁廃止に伴って525人の社保庁職員が分限免職(整理解雇)されてから2年が経過。懲戒処分歴のある職員は年金機構に採用せず、まともな解雇回避も行わない不当解雇です。出先機関廃止などでの公務員の雇用破壊を許さないためにも、全厚生組合員39人の不当解雇撤回のたたかいの強化が重要です。
公務員バッシングを乗り越え、国民共同のたたかいを
国公労連は、いわれのない公務員バッシングを許さないためにも、「財界奉仕の公務員づくり」や「憲法に背く地域主権改革」などの問題を世論に訴えるとりくみを強めています。公務・公共サービスの切り捨てや憲法改悪を許さず、「構造改革」がもたらした雇用や安心・安全の破壊、地方の切り捨てに反対する様々な運動と共同・連帯する公務労働運動を大きく展開することが求められています。
<2002年>
8/ 8 人事院勧告(史上初の本俸切下げ)
11/21 ILO結社の自由委員会報告・勧告
<2003年>
6/ 6 有事関連3法成立
<2004年>
1/ 9 自衛隊をイラクに派遣
6/ 5 年金改悪関連法成立
<2005年>
8/15 人事院勧告(給与構造見直し)
9/11 総選挙で自民「大勝」
10/14 郵政民営化法成立
<2006年>
5/26 行革推進法・市場化テスト法成立
8/ 8 人事院勧告(比較企業規模引下げ)
12/15 改悪教育基本法成立
<2007年>
10/19 行革推進本部専門調査会が労働協約締結権付与の「報告」
<2008年>
6/ 6 国家公務員制度改革基本法成立
8/11 人事院勧告(勤務時間15分短縮)
<2009年>
5/ 1 夏季一時金一部凍結の人事院勧告
8/30 総選挙で自民・公明大敗、政権交代
12/31 社保庁職員525人を分限免職(社保庁解体・民営化)
<2011年>
3/11 東日本大震災で死者不明2万人近く、福島第一原発事故がレベル7
<2012年>
2/29 マイナス人勧含む平均7.8%の賃下げ法案が議員立法により成立