震災から2年、被災地の実態を検証◆仙台で公務労働者の役割を考えるシンポジウムを開催

【とりくみ:各種とりくみ(中央行動など)】2013-03-15

 3月11日、東日本大震災から2年をむかえました。被災地で住民の命を守り、震災前の暮らしを1日も早く取り戻していくためには、公務労働者は何をしなければならないのかを問い、大震災と公務労働者の果たした役割を考えるシンポジウムが3月9日に被災地仙台市内で開催されました。
 主催は宮城公務関連共闘を中心にしたシンポジウム実行委員会で、全労連公務部会も実行委員会に加わってきました。被災時の状況や大震災から2年が経過した今の職場の状況を、4人のパネラーが報告し、岩手や福島を含めて全国から110人が参加しました。(公務ネットニュース№993から転載)

合併による人員削減が被害を拡大

 13時30分からのシンポジウムで、はじめに昆野実行委員長(宮城県国公)は、「大合併によって石巻では職員が合併前の4割に減らされ、被災地への対応ができなかった。このシンポジウムで問題を洗い出し、今後どのようにしたらよいのかを検証したい」とあいさつしました。
シンポジウムでは、宮教組の瀬成田書記長がコーディネーターとなり、4人のパネラーが国の出先機関、自治体、医療、教育の職場から報告しました。

自らも被災~全国統一の業務で即時対応

 はじめに、国の出先機関の職場からハローワーク職員(全労動宮城支部執行委員長)は、震災津波で自宅を流され、母親を津波で亡くしながらも、仙台のハローワークで懸命に働きつづけました。
 全滅になった国道を不眠不休で復旧させた国土交通省、死にもの狂いで水没した仙台空港を復旧させた航空局、津波に呑まれた場所を地図に書き起こした国土地理院など全国からかけつけた国の職員が、自衛隊の人員救出のための道を切り開いた事実を報告しました。発生後の迅速な対応ができたのも、国家公務員は全国どこでも同じ仕事をしているからだと強調しました。
 ハローワーク石巻では、3月11日非常電源が点灯した職安に、明るいところをめざした避難者500人を受けいれたことや、5月下旬から失業給付のため大勢が行列をなして来るようになったことが報告されました。全国から応援にかけつけた職員は全員が職業紹介のプロであり、到着と同時に、あいさつもそこそこに各所で対応を始めることができました。
 これはまさに全国的に均質の仕事をしている出先機関のメリットであると報告しました。
こうした混乱のなかで、ハローワークの職場も1ヶ月で1年分の仕事をして、燃え尽き症候群が見受けられることも指摘され公務員である前に人間であり、増員の必要性を訴えました。

被災地の職員は悲鳴~サポート体制が必要

 石巻市職員で保健師は、市庁舎も1.5m浸水し、3日間水が引かないなか400人の対応をしました。水に濡れたままの人が押し寄せ、指示のないまま各自が行動しはじめるなど、石巻市全体が指示系統がなくばらばらに動いていました。1市6町の合併で誕生した石巻市が、非常事態ではなかなか機能しなかったという問題点が指摘されました。
 被災した職員たちの状況では、4月に10日に1日、5月に週に1回休みが取れるようになっても、仮設住まいも多く生活の安定は困難を極めました。被災後の石巻市では高校生の妊娠が多くなったり、小中高校生の不登校や虐待も多く見うけられるが、生活再建のため親が多忙で将来展望が見えなくなっているからではないかと指摘しました。
 教育委員会もとりくみを始めているが、市町村合併で職員は減っているうえ、他県からの応援者に対しても遠慮もある。震災業務は、短期間で終了できるものではなく、心のケアの専門化がはかられることから、不安で走り続ける職員に対して、末永い支援をお願したいとのべました。

災害拠点病院での体験

 独立行政法人国立病院機構・西多賀病院の職員は、震災時は仙台医療センターの医療事務に勤務していました。入院病床が698床という緊急期医療を担う大型の病院で災害拠点病院にも指定されていました。
 震災当日の夜6時過ぎには山形県立病院から災害地支援医療チーム(D(ディ)-MAT(マット))が最初に到着し、その後も、100チーム300人のD-MATが全国から結集して救急外来対応を行ないました。3ヶ月以上にわたって避難所にまで出向いて活動しました。
 行方不明者の家族との安否確認は、たいへんつらい仕事であり難しい業務であるため、希望にこたえることのできない現実に直面したことも明かされました。
 震災を経験して、病院自体が被災するということは想定していなかったことや、職場の十分な人員配置の必要性、互いの信頼関係や協力しあう職場の確立から生まれるチームワークの充実が最も大切であることを実感するなか、災害に強い病院づくり、自立できるライフラインの確保、技術担当職員の配置を指摘しました。

教師自身の健康維持づくり環境を

 女川町立第二小学校教員は、震災当時は石巻市立鹿妻(かずま)小学校に勤務しており当時は5年生35人の担任をしていました。教室には1m30cmの高さまで津波がおしよせましたが、小学校は非難所となり、最高で2,000人が避難しました。体制運営は校長を中心に結成され、教職員全員で校舎の巡視管理を強化しましたが、それだけでは手に負えませんでした。この非常事態に人事異動が発令されたという事態も明らかにされました。自治体当局と現場とのやりとりが困難を極めるなど、融通がきかない行政の実態も指摘されました。
 震災を忘れようと思いながらも、子どもたちのケアをしながら教育活動をつづける必要があり、そのなかで、教師自身の健康を維持できる環境づくり訴えました。

 4人のパネラーからの報告を受けてフロアー発言では、「道路復旧の先頭にたってきたのは、地元の建設業者と地方整備局だ。出先機関の廃止では大変ことになる。官民共同で運動を強めたい」(建交労)、「大川小学校で多くの児童が亡くなったが、県の報告書ではハザードマップを5割が作成していなかった。教育委員長も2年で変わり、3・11を経験している人がいなくなる無責任体制がある」(宮教組)、「各地で公立病院の役割があらためて明らかになった。医師・看護師の増員が必要だ」(宮城県医労連)、「56人の組合員が亡くなった。国の集中改革プランで12%の定員が削減されるもと、復興に向けて人が圧倒的にたりない。増員とともにすべての復興にかかわる職員の心のケアが急務となっている」(岩手自治労連)などの発言が続きました。

 最後に公務部会から宮垣忠代表委員が閉会あいさつし、「公務労働者の役割が大事であったことが明らかになった。まだ10万人以上が仮設住宅暮らしを強いられている現状だ。被災地の声に沿った復旧・復興にむけて、公務・公共サービスの拡充を求めていこう」と決意を述べて、シンポジウムの成功を確認しました。