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「大量首切り反対」を中心闘争課題にかかげてたたかう全官労(全国公庁職員労働組合協議会)の第20回メー出ポスター = 1949年5月1日
1949(昭和24)年1月、吉田茂内閣は、「行政機構刷新及び人員整理に関する件」を閣議決定した。おもな内容は@各省部局3割縮小、A地方出先機関原則廃止、B人員整理は一般会計3割減・特別会計2割減、だった。全官労(国公労連のルーツ)は3月19日、「徹底的にたたかう」との非常事態宣言を発した。行政整理を実施する行政機関職員定員法(定員法)が5月11日、国会に提出された。全官労は国会をとりかこむデモをおこない激しくたたかったが、定員法は5月31日に成立、6月1日施行された。全官労は6月14日から全国大会を開き、「職場死守宣言」を採択し、首切り反対闘争をすすめていった。大会は、闘争強化をはかるため全官労を協議会から連合会へ改組することを決定した。
一方、「国鉄10万人首切り計画」に反対していた国鉄労働組合(国労)には、3大謀略事件といわれた下山事件(7月5日)、三鷹事件(7月13日)、松川事件(8月17日)が相次いで起こり、国労の職場幹部・活動家をねらい撃ちにした首切人員整理が強行された。
国鉄における行政整理の終了をみて、各省庁の行政整理が強行された。9月末までの各省庁の人員整理数は3万3,345人(主な省庁では、厚生省1,351人、労働省2,770人、運輸省2,500人、建設省1,478人、通産省約800人)にのぼった(『国公労働運動五十年史』より)。
(国公労調査時報 bT87 2012年9月号)
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