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あの時の一枚/写真で振り返る国公労働運動の歴史
 

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あの時の一枚 〈89〉

■ 統一の力で要求実現へ、国土交通労働組合を結成
全運輸、全建労、全気象、全港建など省内の6単組が組織統一(2011年9月11日)

 
     
   
 

国土交通労働組合結成大会で選出された新役員
=2011年9月11日、東京・有明

 省庁再編から10年。この日、国土交通省内にある6つの労働組合が「大同団結」を合い言葉に組織統一を果たした。国公労連加盟の全運輸、全建労、全気象、全港建と、国公労連未加盟だった海員学校職員組合、海技大学校職員組合の6単組で結成した国土交通労働組合である。
 来賓あいさつで国公労連副委員長の川村好伸氏は、国土交通労働組合の結成の意義にふれ、@出先機関廃止や賃下げなどの攻撃に対する反撃ののろし、A国公産別運動を全国で展開する要、B産別の組織と運動の質的、組織的発展の土台であるとのべた。
 新役員を代表してあいさつした国土交通労働組合中央執行委員長の安藤高弘氏は、「6単組が、大同団結した。それぞれの単組の歴史と伝統をひきつぎ、先進的なとりくみをいかし、不十分なところは互いにおぎないあおう。厳しい情勢だが、たたかう組合の組織統一に世間の注目も高い。時代の転換点ともいう時期に、新たな出発を決意した。新しい運動を全国の職場からつくりあげよう」とのべた。
(国公労調査時報 bT83 2012年5月号)


 
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あの時の一枚 〈90〉

■ 憲法違反の公務員賃下げ法案許さず
最後まで成立阻止でたたかいぬいた国公労連(2012年2月)

 
     
   
 

民間の仲間も支援にかけつけた国会座り込み行動=2012年2月2日、東京・永田町

 2011年5月13日、民主党・菅直人内閣の片山善博総務大臣は国公労連にたいし国家公務員給与の「3年間、1割削減」の提案を行った。政府は、その前年秋に「人件費を削減するための措置を検討し、必要な法案を提出する」ことを表明していた。
 交渉の場で国公労連は、労働基本権制約のもとで人勧にもとづかない賃下げの違法性を指摘し、撤回を求めた。しかし、連合・公務員連絡会は、団体協約締結権との一体扱いで賃下げを政府と合意した。それを根拠に菅内閣は6月3日、「本俸10〜5%削減及び一時金一律10%削減する」賃下げ法案と公務員制度改革関法案の閣議決定を強行した。国公労連は、全労連公務部会の仲間とともに、憲法違反の賃下げ法案撤回・廃案のための粘り強いたたかいを全国で実施した。同年10月、政府は2011年の人事院勧告を見送り、賃下げ法案の早期成立を期す閣議決定を行った。国公労連は全労連公務部会とともに、賃下げ法案廃案にむけた国会前座込み行動を開始した。
 2012年2月17日、民主、自民、公明3党は、賃下げ法案の修正に合意。2012年度から2年間、平均7.8%引き下げる3党合意の賃下げ法案は議員立法として国会に提案され、衆参あわせ5時間足らずの審議で2月29日可決、成立した。

(国公労調査時報 bT84 2012年6月号)


 
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あの時の一枚 〈91〉

■ 公務員賃下げ違憲訴訟、国公労連と組合員が国を提訴 (2012年5月25日)

 
     
   
 

訴状提出のため東京地裁に向かう「公務員賃下げ違憲訴訟」原告団と弁護団
=2012年5月25日、東京・霞が関

 国公労連は5月25日、人事院勧告によらない特例法(賃下げ法)は憲法違反として、国に賃金の減額分や慰謝料などの損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こした。原告は国公労連と組合員241人(第1次分)だった。国公労連自身が原告となったのは、労働組合の存在意義自体を無視、否定して立法の提案がされ、しかも団体交渉も行わずに国会で議員提案で減額されたからである。
 提訴に先立って実施された東京地裁前行動には原告をはじめ多くの組合員や支援者が集まった。国公労連の宮垣忠委員長はあいさつで、「訴訟は憲法、ILO条約やいままで確立された労使関係を無視して強行されたことにたいする当該労働者としてやむにやまれぬ反撃だ。東日本大震災では、国家公務員も全国からの応援態勢で不眠不休で救援と復旧復興業務にあたった。にもかかわらず、政府が人勧を無視して、賃金が2年間にわたって平均7.8%引き下げられることに、全国の職場は怒りにあふれている。広範な労働者、国民と共同して消費税増税を阻止し、賃下げの悪循環を断ち切り、すべての労働者の安定した雇用確保と、公務員労働者の労働基本権の全面回復にむけたたかおう」と訴えた。

(国公労調査時報 bT95 2012年7月号)


 
     
 

あの時の一枚 〈92〉

■ 国公労連書記局の資料書庫に納められていた全調達組合旗 (1962年11月1日)

 
     
   
 

国公共闘に託された全調達組合旗
国公労連書記局の資料倉庫に納められていた全調達組合旗 = 1962年11月1日

 国公労連書記局の資料書庫に「全調達組合旗 国公共闘議長殿」と書かれた古い大判封筒があった(※国公共闘は国公労連の前身)。裏に「一九六二年十一月六日 全調達中央執行委員長」とある。開封すると、「全調達」と白く染め抜かれた組合旗がでてきた。
 1962年に防衛施設庁が設置されるまで、防衛庁(現・防衛省)の外局として調達庁があり、全国で組合員2,000人を超える全国調達庁職員労働組合(全調達)があった。調達庁は、敗戦によって進駐してきた占領軍の需要にもとづいて、いっさいの調達をする機関として発足した官庁だった。講和条約とそれにともなう日米安保条約締結後は、米軍や自衛隊基地・施設に関する仕事をしていた。それが、1962年5月に防衛施設庁法が成立すると、同年11月1日に調達庁と防衛庁建設本部が統合され、調達庁職員は一般職から防衛庁特別職に切りかえられ、強制的に団結権を奪われた。同日、全調達は解散した。
 当時、機構の統合に反対する全調達と国公共闘連名のビラには、「労働組合の権利はく奪は戦争への道」「基地反対!大砲にかわり、家を!賃金を!仕事を!」と書かれてあった(「国公労新聞」縮刷版第1集に収録)。
 全調達から託された平和、権利、労働条件改善のたたかいは、国公労連運動に確実に受け継がれている。一方、談合体質にまみれた防衛施設庁は2007年9月に廃止された。

(国公労調査時報 bT86 2012年8月号)


 
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あの時の一枚 〈93〉

■ 大量首切り定員法に反対してたたかう全官労 (2003年5月1日)

 
     
   
 

「大量首切り反対」を中心闘争課題にかかげてたたかう全官労(全国公庁職員労働組合協議会)の第20回メー出ポスター = 1949年5月1日

 1949(昭和24)年1月、吉田茂内閣は、「行政機構刷新及び人員整理に関する件」を閣議決定した。おもな内容は@各省部局3割縮小、A地方出先機関原則廃止、B人員整理は一般会計3割減・特別会計2割減、だった。全官労(国公労連のルーツ)は3月19日、「徹底的にたたかう」との非常事態宣言を発した。行政整理を実施する行政機関職員定員法(定員法)が5月11日、国会に提出された。全官労は国会をとりかこむデモをおこない激しくたたかったが、定員法は5月31日に成立、6月1日施行された。全官労は6月14日から全国大会を開き、「職場死守宣言」を採択し、首切り反対闘争をすすめていった。大会は、闘争強化をはかるため全官労を協議会から連合会へ改組することを決定した。  一方、「国鉄10万人首切り計画」に反対していた国鉄労働組合(国労)には、3大謀略事件といわれた下山事件(7月5日)、三鷹事件(7月13日)、松川事件(8月17日)が相次いで起こり、国労の職場幹部・活動家をねらい撃ちにした首切人員整理が強行された。  国鉄における行政整理の終了をみて、各省庁の行政整理が強行された。9月末までの各省庁の人員整理数は3万3,345人(主な省庁では、厚生省1,351人、労働省2,770人、運輸省2,500人、建設省1,478人、通産省約800人)にのぼった(『国公労働運動五十年史』より)。

(国公労調査時報 bT87 2012年9月号)


 
     
 

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