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あの時の一枚/写真で振り返る国公労働運動の歴史
 

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あの時の一枚 〈16〉 ●国公労連結成30周年

■ 「元気印の組合でごわす」
 祝200名突破――全司法鹿児島支部(1993年11月20日)

 
     
   
 

薩摩のヒーロー「西郷どん」と「お供の犬」、左右を囲む「桜島ダイコン娘」、背後に元気な青年組合員たち。全司法鹿児島支部「祝200名突破」の記念集合写真=1993年11月20日、鹿児島県・桜島

 この日、全司法鹿児島支部の仲間は国公労新聞94年新年号取材のため集まってくれた。組合員200名突破は支部の悲願だった。1964年、鹿児島地家裁所長に、狂信的な右翼思想裁判官の飯盛重任(いいもりしげとう)氏が着任。彼は全司法を反体制集団と決めつけ、卑劣な組合弾圧をおこなった。250人いた組合員が70年には約40人になった。全司法は不当労働行為とたたかう鹿児島支部を全国的に支援した。こうしたなか、70年に飯盛氏は、鹿児島地家裁の裁判官に青年法律家協会加入の有無、天皇制是非などの思想調査目的の公開質問状を出した。このことが社会的にも問題化し、最高裁は飯盛氏を所長解任した。その後、支部は青年を中心に組織を拡大し、93年5月に200名を突破した。
(国公労調査時報 bT20 2006年4月号)

 
     
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あの時の一枚 〈17〉 ●国公労連結成30周年

■ 人事院を揺るがす大シュプレヒコール
 7.19中央行動に国公労働者3346人(1994年7月19日)

 
     
   
 

「マイナス勧告許さん」「一時金再切り下げ阻止」などの「怒りのムシロ旗」も出た人事院大包囲行動 (1994年7月19日、東京・霞が関の人事院前=現在の総務省前)

 94人勧では、超低額ベアと2年連続の一時金再切り下げが強行されようとしていた。年収ベースでマイナスになりかねない状況だった。国公労連は、これを阻止しようと、7月19日から3日間の全国上京団による中央行動と翌22日には早朝時間外職場大会を実施した。7月19日の公務労組連絡会第3次中央行動の昼休み人事院包囲行動は、3800人が結集。国公労働者は霞ヶ関の仲間も含め3346人が参加。人事院正面玄関前と向かい側の裁判所合同庁舎前と、さらに人事院南側玄関側にも人があふれる大包囲行動となった。8月2日、人事院は平均1.18%引き上げと一時金0.1ヵ月切り下げ勧告を行った。こうした大規模行動の盛り上がりもあって、年収ベースでの減額はかろうじて阻止することができた。
(国公労調査時報 bT21 2006年5月号)

 
     
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あの時の一枚 〈18〉 ●国公労連結成30周年

■ さらば、「人事院ビル」
 解体前最後となった人勧期の包囲行動(1995年7月25日)

 
     
   
 

地下鉄サリン事件後の厳しい警備体制をものともせず夏季闘争に奮闘する国公労働者 (1995年7月25日、東京・霞が関の「人事院ビル」前)

 霞ヶ関合同庁舎第2号館が取り壊されることになり、人事院はこの年の秋、かつて東京地裁だった祝田橋合同庁舎に移った。霞ヶ関第2合庁は、戦前は警察、厚生、労働、建設など内政全般を司る内務省の庁舎だったが、戦後、内務省は解体され、「人事院ビル」とよばれるようになった(昭和30年代の地図に「人事院ビル」と記載されている)。95年の夏はこの「人事院ビル」を包囲する最後の人勧期のたたかいだった。この年、霞が関の中央官庁街をねらった地下鉄サリン事件や庁舎に同居する警察庁の国松長官への狙撃事件があったため、第2合庁は最も厳しい警備体制が敷かれた(正面玄関前の行動が規制された)。しかし、国公労働者は、その警備体制をものともせず、95夏期闘争でのべ1万人を超す人事院包囲行動を展開した。
(国公労調査時報 bT22 2006年6月号)

 
     
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あの時の一枚 〈19〉 ●国公労連結成30周年

■ 寒冷地、熱く燃えた
 寒冷地手当改悪反対!96春闘勝利2・23東北総決起集会(1996年2月23日)

 
     
   
 

東北の公務員労働者が会場をびっしり埋め尽くし、気迫あふれる決起集会となった (1996年2月23日、仙台市・宮城県民会館大ホール)

 この日、仙台市で開かれた東北総決起行動には、公務員労働者が東北6県を中心に全国から2,200人(国公労働者は1214人)参加した。人事院が寒冷地手当の大幅削減計画を明らかにするにつれ、たたかいは95年冬から96年春かけて大爆発。該当地域では国公労働者を軸に幅広い共闘会議が結成され、「連合」傘下組織も含めた公務員労働者の共同が拡がり、公務大産別の画期的な運動に発展した。また、人勧の影響を受ける多くの労働者・地域住民との共同もかつてなく前進し、寒冷地手当改悪反対の「意見書」が827を超える関係地方議会で採択(秋田・岩手両県は100%達成)された。
(国公労調査時報 bT23 2006年7月号)

 
     
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あの時の一枚 〈20〉 ●国公労連結成30周年

■ 何のため、誰のための中央省庁再編
 国会で意見陳述する国公労連藤田委員長(1998年5月6日)

 
     
   
 

衆院行革特別委員会の参考人質疑で中央省庁等改革基本法案について反対の立場で意見陳述を行う国公労連・藤田忠弘委員長 (1998年5月6日)

 この日、衆議院行政改革特別委員会は、中央省庁等改革基本法案について、労働組合の代表と有識者を招き参考人質疑を行った。労組代表は、連合事務局長の笹森清氏と国公労連中央執行委員長の藤田忠弘氏だった。藤田氏は、国民が求める行革は、国民の基本的人権を最大限に実現することだとし、法案の問題点を指摘し、「法案の帰すうが『この国のかたちを』を規定する関係にあるだけに、性急に結論づけられてはならない」と結んだ。この模様は当日のNHKニュースでも流された。しかし、行革基本法は参議院本会議で6月9日、橋本内閣を支える自民、社民、さきがけ3党の賛成多数で可決・成立した。そして、2001年1月から1府12省庁新体制が、同年4月から独立行政法人制度が発足した。
(国公労調査時報 bT24 2006年8月号)

 
     
 

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