官労は解散にあたって、全官労時代から通巻で第191号となる機関紙「官労」終刊号で戦後7年間の「官公庁労働運動史概略」を特集した(1953年6月15日付、「官労」終刊号)
1952年の破防法反対闘争のなかで、官労(官庁労働組合協議会)は官公労(日本官公庁労働組合)との統一行動を発展させ、組織統一の機運が高まっていた。
官労は52年6月の拡大委員会で「平和四原則を守る総評に即時加盟」「官公労との共闘を強化し、すべての官公庁労働戦線の統一」方針を確立した。当時、官労は33組合8万5000人を結集する非現業国家公務員の組合だった(官労については前号参照)。一方、官公労(1949年12月結成)は、国労、全逓、全電通、日教組、自治労協(現・自治労)、全農林、大蔵職組など公企体、地公、国公の19組合約155万人を結集していた。官公労働戦線の統一に向け、官労と官公労で組織統一の懇談会が数十回開かれ、@官労の組合は官公労にいっせい加盟手続きをとるA官公労は官労全組合の加盟を確認するB官労を解散する、ことを確認した。官労は6月8日に解散し、官公労働戦線の統一を実現した。7月、官公労国公部会が発足した。官労組合のなかで総評加盟の組織手続きが早かった全医労、全商工(現・全経済)、全建労、全労働は、7月の「第4回総評大会には、正式に代議員を送ることになった」(「官労」終刊号より)。
(国公労調査時報 bT34 2007年6月号)
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