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あの時の一枚/写真で振り返る国公労働運動の歴史
 

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あの時の一枚 〈34〉 ●国公労連結成まで

■ 国公労働者も重軽傷者を出した政暴法粉砕のたたかい(1961年6月)

 
     
   
 

政暴法粉砕のフランスデモ(道路いっぱいに広がるデモ行進の形態)をする全電波労働組合(現・全通信労働組合)の隊列=1961年6月、東京・銀座の数寄屋橋交差点

 1961年5月13日、自民、民社両党は議員立法で政治的暴力行為防止法(政暴法)案を突如国会に提出した。前年の社会党浅沼委員長刺殺事件など右翼テロの防止を口実に、大衆運動の圧殺をねらった弾圧法案であった。前年、歴史的な安保闘争をたたかった民主勢力は急速に反対闘争に立ち上がった。6月3日に10万人の反対集会が実施された。同日、法案は衆院本会議で強行採決された。しかし、反対運動はおとろえず、6月5日から8日まで連日請願行動がつづけられた。
 6月6日、7万人の決起集会・国会請願デモが行われたが、解散地点で国鉄労働者が不当逮捕され、デモ隊は抗議のため断続的に座りこんだ。その結果、最後尾の国公労働者が会場を出発したのは午後10時半、国会に到着したのは午前2時半だった。そのとき整然と行進する国公共闘の隊列に突然、警視庁第4機動隊が襲いかかってきた。無抵抗の組合員になぐる、けるの暴力を加え、国公労働者138人が重軽傷を負った。政暴法を地でいく野蛮さだった。
 6月8日夜遅く、政暴法案は継続審議となった。民主勢力はたたかいの矛をおさめず、闘争を継続し、年末の通常国会でついに廃案においこんだ。
(国公労調査時報 bT38 2007年10月号)

 
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あの時の一枚 〈35〉 ●国公労連結成まで

■ 総理府統計職組など国公各組合への首切り不当弾圧(1961年12月9日)

 
     
   
 

総理府統計職組執行委員長他5人への不当処分発令への抗議集会=1961年12月9日、東京・新宿区若松町の総理府統計局(現・総務省第2庁舎)の中庭

 総理府統計局職員組合(現・統計関係職員労働組合連合会)は、臨時職員の若い女性が圧倒的な職場で、臨時職員の定員化闘争、安保闘争をへて職場闘争がつよまり、1961年4月の大会で初めて職制を含まない執行体制が確立された。6月の一時金闘争を通じ、封建的な労務管理、劣悪な職場環境を改善するための職場闘争が一気に燃え上がった。10月には年休を取得しての職場大会参加に賃金カットがだされ、これを抗議するために国公の仲間が連日1500人もかけつけた。これにたいし当局は、警察機動隊を導入して弾圧した。そして、12月9日、統計職組委員長の免職を含む5人への不当処分が強行された。
 この6日後の12月15日、全税関神戸支部の3幹部に免職処分弾圧が強行された。また、この年の4月には、臨時職員の全員定員化を要求した61春闘における全建労の実力行使にたいし、当局は免職13人をふくむ142人への不当処分をおこなっていた。政府は、首切り処分を乱発し、国公労働運動の組織破壊に着手したのだった。こうした動きを背景に、62〜64年のあいだに全建労、全国税、全税関、総理府統計職組に全面的な「第二組合」結成の攻撃がはじまった。
(国公労調査時報 bT39 2007年11月号)

 
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あの時の一枚 〈36〉 ●国公労連結成まで

■ ILO87号条約批准要求と国公法改悪反対で国民集会(1963年3月16日)

 
     
   
 

冷雨の中、国公労働者を中心に3000人が結集した国民大集会=1963年3月16日、東京・日比谷野外音楽堂

 官公労働者は、1948年のマッカーサー書簡によって労働基本権を奪われた。60年11月、国公共闘は労働組合権の侵害、現行法律制度はILO87号条約(結社の自由及び団結権の保護に関する条約)違反として、ILOに提訴。同趣旨で公共企業体、地公の労組も提訴をおこなっていた。しかし、政府は、条約批准に便乗して、国公法改悪に着手してきた。改悪の主要点は、登録制度法制化、交渉対象事項の制限強化、人事局の設置による管理強化などだった。87号条約の趣旨とは逆に団結権を侵害し、権力に従順な公務員づくりを企図するものだった。
 63年3月、政府(池田内閣)は通常国会に4度目の国公法改悪案を提出した。国公共闘は、2月に労働大臣と国公法改悪反対で交渉するとともに、西日本(大阪2000人)、東日本(仙台800人)で国公団結集会と、3月16日に中央(3000人)で国民集会を開催して、先制的、大衆的にたたかった。国公法改悪案は、この年の通常国会で、4たび廃案となった。
(国公労調査時報 bT40 2007年12月号)

 
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あの時の一枚 〈37〉 ●国公労連結成まで

■ 衆院ILO特別委員会で国公法改悪案が強行採決(1965年4月15日)

 
     
   
 

国公法改悪反対と賃上げなど諸要求を結合して全国から1000人を目標にとりくまれた全建労上京団の参加者=1965年4月13〜15日、東京・霞が関

 ILO(国際労働機関)は、1963年11月の理事会で日本の「結社の自由に関する実情調査調停委員会」(ドライヤー委員会)を設置した。65年1月、ドライヤー委員会調査団が来日し、実情調査を行った。国公共闘から、全建労、全国税、全税関、総理府労連、全労働、全司法が団結権侵害の実情を説明した。こうした事態の進展のなかで政府(佐藤内閣)は追いつめられ、自民党は65年4月15日、ILO87号条約批准と国公法改悪案を衆院ILO特別委員会で強行採決した。国会審議はストップした。しかし、5月17日、条約と国公法改悪案は可決・成立した。国公法改悪によって、総理府に人事局が設置された。人事局は、庁舎管理規定の制定と組合活動の制限、公務員の「服務宣誓」改悪、勤評の政令試行など、労務管理強化の制度改悪を行ってきた。  国公法改悪案は通ったが、60年代前半におけるILO87号条約批准と国公法改悪反対闘争は、数多くの教訓を残した。国公労働者は、安保闘争、政暴法反対闘争など国民的な政治課題と結合してたたかい、改悪案を6度廃案に追い込むなど世論を喚起した。無数の学習会、職場討議をとおし、みずからの権利状況が、国際基準にてらしていかに立ち遅れているかを痛感し、労働基本権問題を国際的視野でとらえることの必要性と権利意識を高めた。
(国公労調査時報 bT41 2008年1月号)

 
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あの時の一枚 〈38〉 ●国公労連結成まで

■ 国公労働運動の水準引き上げめざし全国活動者会議はじまる(1965年)

 
     
   
 

国公統一賃金要求署名運動などの賃金闘争の経験を交流した国公共闘第3回全国活動者会議=1965年7月11〜13日、静岡・熱海市

 国公共闘は、1965年1月に第1回全国活動者会議(全活会議)を開催した。そこでは、生活に根ざした賃金をはじめとした国公労働者の要求を組合員の力を結集してまとめ、職場を土台に、仲間の創意を活かして統一要求とたたかい方を組織することを討議した。全活会議で確認したことを実践しつつ検証するため、全活会議は同年に5回開催された(第1回1月203人、第2回3月234人、第3回7月172人、第4回9月406人、第5回12月161人)。7月の第3回全活会議では、一律7000円引き上げの国公統一賃金要求署名の到達点と今後のとりくみの重要性を討議、確認した。そのなかで、全税関神戸支部の仲間がゼッケンを胸に地域、通勤車中で賃金を公開し、賃金署名を訴えた活動の報告は深い感銘をあたえた(『国公労働運動五十年史』より)。
 全活会議は66年から72年まで春と秋の2回、その後は年1回、または必要に応じて開催された。賃金闘争をはじめとした国公産別課題における全国各地での貴重な経験を学びあい、国公労働運動の水準引き上げに大きな役割を果たした。
(国公労調査時報 bT42 2008年2月号)

 
     
 

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