政暴法粉砕のフランスデモ(道路いっぱいに広がるデモ行進の形態)をする全電波労働組合(現・全通信労働組合)の隊列=1961年6月、東京・銀座の数寄屋橋交差点
1961年5月13日、自民、民社両党は議員立法で政治的暴力行為防止法(政暴法)案を突如国会に提出した。前年の社会党浅沼委員長刺殺事件など右翼テロの防止を口実に、大衆運動の圧殺をねらった弾圧法案であった。前年、歴史的な安保闘争をたたかった民主勢力は急速に反対闘争に立ち上がった。6月3日に10万人の反対集会が実施された。同日、法案は衆院本会議で強行採決された。しかし、反対運動はおとろえず、6月5日から8日まで連日請願行動がつづけられた。
6月6日、7万人の決起集会・国会請願デモが行われたが、解散地点で国鉄労働者が不当逮捕され、デモ隊は抗議のため断続的に座りこんだ。その結果、最後尾の国公労働者が会場を出発したのは午後10時半、国会に到着したのは午前2時半だった。そのとき整然と行進する国公共闘の隊列に突然、警視庁第4機動隊が襲いかかってきた。無抵抗の組合員になぐる、けるの暴力を加え、国公労働者138人が重軽傷を負った。政暴法を地でいく野蛮さだった。
6月8日夜遅く、政暴法案は継続審議となった。民主勢力はたたかいの矛をおさめず、闘争を継続し、年末の通常国会でついに廃案においこんだ。
(国公労調査時報 bT38 2007年10月号)
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