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あの時の一枚/写真で振り返る国公労働運動の歴史
 

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あの時の一枚 〈49〉 ●国公労連結成まで

■ 1時間ストを実施し初の1万円台賃上げを勝ち取った73賃金闘争 (1973年4月27日)

 
     
   
 

県国公が主導的役割を果たした73春闘4・27国公統一ストライキの地域合同集会は公務員宿舎でも実施された=1973年4月27日、神戸市内

 1973年春闘は、国民生活擁護の「世直し」春闘としてたたかわれた。4月26、27日、全交運、公労協中心の72時間交通ゼネストを柱に68単産310万人の春闘統一ストが決行された。国公共闘は4.27ストに国民的諸課題と「賃上げ2万円」をかかげ、従来の29分から1時間のスト態勢でのぞんだ。スト決行2日前、最高裁は全農林警職法事件で公務員のスト権について全面一律禁止を1票差で合憲とする逆転反動判決を出していた。しかし、国公共闘はこれにひるむことなく、15単組13万人がスト態勢を確立し、7万人以上がスト行動に結集した。地域合同集会にも23ヵ所で6500人以上が参加し、各県国公共闘が大きな役割を果たした。
 73春闘の相場は、労働省調べで民間大手21産業、240社の平均賃上げで1万4149円、20.1%だった。公労協の仲裁裁定も加重平均1万4708円、17.49%(定昇込み)でこれまでの最高だった。公務員共闘は4月28日、政府・総務長官から「ほぼ14.8%、1万4000円程度を期待する」という回答を引きだした。人事院は8月9日、平均15.39%、1万4493円の引き上げ勧告をおこない、公務員労働者も戦後初の1万円台の賃上げを勝ち取った。
 さらに、秋になると「オイルショック」による物価が暴騰。公務員労働者は12月には事実上のインフレ手当として年度末手当0.3ヵ月繰り上げ支給を実現した。
(国公労調査時報 bT53 2009年1月号)


 
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あの時の一枚 〈50〉 ●国公労連結成まで

■ 国民の共感と支持で3万円賃上げをかちとった74年賃金闘争 (1974年4月13日)

 
     
   
 

74春闘を半日ストでたたかう大阪国公空港地域集会=1974年4月13日、大阪・池田市

 1973年から74年にかけての石油危機に大企業が便乗した悪性インフレは、「狂乱物価」といわれ、あくどい買占め、売り惜しみで物価をつりあげる大企業の反社会的行為に、国民の怒りの行動が全国的にひろがった。春闘共闘委員会(180単産831万人)は、74春闘を、「インフレから生活を守る総決戦としての国民春闘」と位置づけ、73春闘を大きく上回る「官民一体のゼネスト的態勢」でたたかうという方針をきめた。
 第3波統一ストライキは、4月11、12日の私鉄スト、11〜13日の国労など公労協の72時間ストと、かつてない規模で全交通機関がストップした。国公共闘も、11日、13日にははじめて半日ストを反復してたたかった。国公共闘が追求した地域合同のスト集会は、41県、132ヵ所で、国公労働者だけでなく他の公務員や民間の仲間をふくむ地区労規模のスト集会に発展した。
 74春闘は労働省調べで2万8981円、32.9%の賃上げを勝ち取った。公務員共闘は賃上げの早期支払いを強く要求した。その結果、国会で「公務員給与の早期支給」が決議され、5月30日に人事院は「本俸月額10%(一人平均1万円)を4月にさかのぼって支給」との暫定勧告をおこない、6月3日に給与法改正案が成立し、人勧前に支給された。そして、7月に人事院はその暫定の10%をふくめて平均29.64%、3万1144円の引き上げ勧告をおこなった。
(国公労調査時報 bT54 2009年2月号)


 
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あの時の一枚 〈51〉 ●国公労連結成まで

■ 共闘会議から連合体化めざし (1974年10月3日)

 
     
   
 

「連合体化」を確認した国公共闘1974年度定期大会最終日=1974年10月3日、神奈川県・箱根町

 1970年6月、国公共闘、国公連(全農林など7組合)、国会職連、会計検査院労組、京都国税の五つの組織で全国公賃金共闘が結成された。63年の国公共闘の不団結発生(全農林などが脱退)いらい、全国組織としての共闘関係がとだえていた国公労働組合の共闘が実現した。その前年、国公共闘は、全農林に「行動の統一に関する申入れ」を行っていた。
 同時に、国公共闘は、国公労働組合運動の組織的発展をめざしつつ、当面、国公共闘を産業別組織として強化するため「連合体化」する議論を開始していた。
 71年9月の国公共闘定期拡大評議会で「すべての国公労働者の大同団結と国公共闘の組織強化」方針を決定した。73年9月には組織強化の内容として、(1)決議機関の民主的強化(2)執行機関の充実強化(3)宣伝、教宣活動強化(4)青年、婦人組織の独立と強化(5)上部団体(当面、総評)、共闘組織への可能な限りの一括加盟(6)財政強化、などを確認した。
 1974年10月にひらかれた国公共闘1974年度定期大会では、「国公共闘の連合体化を実現すること」、「具体的組織要綱を全単組、全県国公に提起し、75年2月に臨時大会を開きこれをかためること」を提起し、満場一致確認した。
(国公労調査時報 bT55 2009年3月号)


 
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あの時の一枚 〈52〉 ●国公労連結成まで

■ 結成後ただちに大衆集会に翻った国公労連旗 (1975年10月5日)

 
     
   
 

国公労連結成第1回定期大会閉会の翌日に開かれた「インフレ共闘10・5国民大集会」で、初めて大衆行動の場にひるがえった国公労連旗=1975年10月5日、東京

 国公労連結成大会は、1975年10月1〜4日まで東京・南部労政会館で開かれた。  最終日に採択された大会宣言では、「国公労働組合運動の統一を土台に、労働戦線の階級的統一と革新統一戦線の実現のため、いっそう奮闘」するとともに、「国公労働者が、みずからの生活と権利を守るためにも、また、真に働きがいのある職場を築きあげるためにも、国民と深く団結し、国民のための行政確立をめざして奮闘しなければならない」とし、「国公労連結成の歴史的な大会において、その決意を新たにし、この秋年闘争から全力をあげてたたかうことを誓い、内外に宣言」した。  70年安保・沖縄返還闘争や国民春闘としての盛り上がりがある一方、70年代に入って、日本の労働運動全体の右翼再編をねらうしつような動きがつづいていた。このような次期に「革新統一戦線」をかかげた国公産別の連合体組織が誕生した意義は大きかった。
(国公労調査時報 bT56 2009年4月号)


 
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あの時の一枚 〈53〉

■ 差別攻撃をはねのけ組織拡大で前進をつづける全建労 (1975年11月5日)

 
     
   
 

「75春闘への大量処分は、全建労差別を是正するとの『合意メモ』に反する」と抗議行動をする全建労と支援の国公単組の組合員=1975年11月5日、東京・霞が関の旧建設省内

 全建労(当時全建設省労働組合)は、かつて2万人を超えた組織だった。しかし、1960年代初頭、当局による大がかりな弾圧、組織破壊・分裂攻撃のもとで年々組合員の減少が相次ぎ、60年代半ばには四千数百人まで減少していた。だが、1971年秋の拡大運動で純増への転機をつくった。
 こうしたなか、1974年秋、朝日新聞1面に、建設省が作成した「総評系の労組役員、活動家と革新政党員は昇任、昇格させない」という極秘文書の存在が報道された。これは、全建労つぶしの差別取り扱いを明確に指示するものだった。全建労と国公共闘は、総評規模で組織破壊の差別反対闘争を全国各地でたたかい、極秘文書問題は国会でも取り上げられた。当局は追い詰められ、ついに1975年3月27日、建設省(事務次官ら首脳)と組合側(荒川昌男全建労委員長、樋口緑国公共闘議長、総評副議長ら)で、当局の不当労働行為を認め、差別を是正するとの「合意メモ」を確認した。
 この「合意メモ」は、その後の全建労の拡大運動に大きなはずみをつけ、1978年には、当局の手でつくられた第二組合を組織人員で見事に逆転した。

(国公労調査時報 bT57 2009年5月号)


 
     
 

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