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あの時の一枚/写真で振り返る国公労働運動の歴史
 

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あの時の一枚 〈69〉

■ 輸入食品シンポジウム・港見学に大きな反響 (1986年5月17日)

 
     
   
 

130人が参加した「輸入食品シンポジウム」の港見学会=1986年5月17日、東京・大井埠頭

 「日本の輸入食品の安全性は大丈夫なんだろうか−」。1986年5月17日、「輸入食糧品と国民のくらしを考える」シンポジウムが東京で開かれた。主催は、国公労連、全税関、東京国公、東京港湾労協、横浜港湾労協。70を超える団体から約300人が参加した。多くが首都圏のさまざまな消費者団体、女性団体だった。「各団体への1通の案内状でこんなに集まるとは」というのが実行委員会の率直な感想だった。
 食糧の40%が輸入となり、毒入り輸入ワイン事件や輸入バナナの燻蒸(くんじょう)に青酸ガスの使用が問題視されるなど、輸入食品の安全性に疑問や不安がひろがっていた。しかし、84年度、輸入食品の抜き取り検査率は4.6%、業者による抜き取り検査を含めても9.7%にすぎなかった。こうしたなか、輸入食品の安全性を追求する運動は、83年に全税関神戸支部と兵庫県母親連絡会との連携によってはじまり全国にひろがっていた。
 シンポジウムに先立ち、午前に行われた食品輸入の現場を見て回る大井埠頭見学会には130人が参加した。輸入貨物がどんどんコンテナ詰めで国内に入り、港のチェック機能はどんどん低下している実態があった。見学会の参加者は案内人の説明に熱心にメモをとっていた。

(国公労調査時報 bT73 2010年9月号)


 
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あの時の一枚 〈70〉

■ 労働戦線の右翼再編に反対、春闘決起集会に8万人(1988年3月27日)

 
     
   
 

8万人が参加した「88国民春闘勝利3.27大集会」の議長をつとめた東京国公の鈴木和夫議長=1988年3月27日、東京・代々木公園

 日経連(日本経営者団体連盟)が1988年1月に発表した労働問題研究委員会報告は、「定期昇給のみの賃上げ、春闘方式の見直し」を提示し、労働戦線の右翼再編がすすむなかで、賃上げ抑制と春闘破壊の態度を露骨にしめした。すでに87年11月19日に、同盟と中立労連が解散し、翌20日に右翼再編による民間部門の事実上のナショナルセンターである全民労連(連合)が結成されていた。88春闘では、この「連合」と総評が共催で3月26日に決起集会を開き、約2万5000人が参加した。
 これに対し、翌27日に全国10都県でまともな春闘をめざす集会が実施された。首都東京では、東京統一労組懇などの「東京春闘懇・共同行動実行委員会」と都労連などの「右翼労線反対首都労組連絡会」が共同して「88国民春闘勝利3・27大集会」を東京・代々木公園でひらき8万人が参加した。国公労連は、全国上京団行動、東京国公の仲間とともに約3200人が参加した。

(国公労調査時報 bT74 2010年10月号)


 
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あの時の一枚 〈71〉

■ 「財界に官庁街を売り渡すな」と大手国公平和盆踊り(1988年8月23日)

 
     
   
 

16回目の大手国公平和盆踊り=1988年8月23日、東京・千代田区の大手町合同庁舎中庭

 この日、東京・大手町合同庁舎の中庭にやぐらが組まれ、周りを電灯がともった赤い提灯がはりめぐらされた。大手国公21単組の地域共闘としての団結をより深める恒例の大手国公平和盆踊りである。やぐらの上で、浴衣姿の女性が踊り、その周りをワイシャツ、ネクタイ姿の男性の踊る姿もちらほら見えるが、参加者の多くは、単組ごとに集まり、ビール片手に、おでんなどをつまみ、談笑を楽しんでいた。
 16回目を迎えたこの年の平和盆踊りは場所取りがしれつだった。やぐらには「東京一極集中の是正につながらない省庁の地方移転反対」と書かれた横断幕がかかげられていた。各省庁の関東地方の出先機関があつまる大手町合同庁舎の機能を、他県に移転させる案が動き出そうとしていた。東京国公、大手国公は、「国の財産を大企業にたたき売り、国民の利便性を奪うもの」と移転反対をかかげていた。
(*その後、大手町庁舎の移転は強行された。跡地は三菱地所によって開発され、その一角には、大企業の元締めといわれる日本経団連の経団連ビルが建っている)

(国公労調査時報 bT75 2010年11月号)


 
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あの時の一枚 〈72〉

■ たたかうナショナルセンター、全労連を結成(1989年11月21日)

 
     
   
 

力強く結成された全労連(全国労働組合総連合)=1989年11月21日、東京・千代田区の日比谷公会堂

 1989年11月21日は、日本の労働運動史上画期的な日となった。「百年にわたる日本の労働運動の積極的なたたかいの伝統をひきついで」(結成宣言)、たたかうナショナルセンター(労働組合全国中央組織)としての全労連(全国労働組合総連合)が27単産41地方組織140万人で結成された。
 国公労連は、労働戦線の右寄り再編がすすみ、総評の解体が明らかになった段階で、「搾取と抑圧に反対し、労働者・勤労国民の利益を真に守ってたたかう」ナショナルセンターを一貫して追求してきた。そのために国公の全国の職場では、2年間にわたって、学習会や機関決定などを通じて、たたかうナショナルセンター確立とそれへの参加について、率直な討議をつくしてきた。こうした職場からの議論の積み上げによって、国公労連に加盟する各単組は、「たたかうナショナルセンターに国公労連を通じて加盟する」ことを全国大会で事前に決めてきた。
 そして、全労連結成前、1989年10月31日から3日間ひらかれた国公労連第28回定期大会で、「たたかうナショナルセンター=全労連への加盟」を、反対ゼロ、保留9の圧倒的多数の賛成で決定していた。

(国公労調査時報 bT76 2010年12月号)


 
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あの時の一枚 〈73〉

■ 俺たちの怒りは爆発寸前だ、一時金差別支給を許さない (1990年7月3日)

 
     
   
 

 2000人が参加した国公労連、東京国公の人事院包囲行動。この日全国の国公職場で一時金の差別支給に反対する早朝時間外集会が実施された=1990年7月3日、東京・霞が関

 人事院がこの年の勧告で強行した一時金の傾斜支給(役職によって支給率を変える)にたいし、全国の組合員から激しい怒りの声があがった。一部特権官僚優遇、職務給強化によって職場に差別と分断を持ちこむことは許せないと、連日の抗議行動が各地で行われた。
 近畿では6月18日、「近畿公務労働者総決起集会」が開かれ、近畿一円から予想を上回る2000人が参加し、人事院近畿事務局を包囲した。
 国公労連青年協は、5月24日から3日間、’90国公青年大交流集会(エキサイティング信州)を開き、参加した2539人全員が各県ごとに一時金差別支給反対のよせ書きを布に書いた。それをぬいあわせた40メートルのジャンボ横断幕を作成し、それをもって何度も人事院本院を包囲する怒りの反対行動を実施した。

(国公労調査時報 bT77 2010年1月号)


 
     
 

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